『孝元天皇が物部氏と連携』①
<これまでの記事の振り返り>
【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えており、この仮説をベースにいろいろと調べてきました。
これらを理解するために、ここまで次のようなことを調べてきました。
(1)孝霊天皇(7代)の皇子「吉備津彦命」
(2)開化天皇(9代)の皇子で「彦座王命」とその息子「丹波道主命」
(補足)四道将軍である『大彦命と武渟川別命』
(補足)「物部氏」に関する多くの伝承がある「出雲口伝」
ここからは以前設定した残るキーワードについて調べていきます。
(3)『孝元天皇が物部氏と連携』
<記紀での孝元天皇(8代)>
以前の記事でも紹介しましたが、孝元天皇(8代)はこれまでの天皇と傾向が変わり、「物部一族」から后妃を娶るようになります。
<出雲口伝での解釈>
以前の記事でも紹介しましたが、出雲口伝の関連書籍によると【「物部氏」は九州から来た勢力で、第一次東征においては、まだまだ力が弱く、既存勢力の「孝元天皇(8代)」と婚姻関係を結ぶことで畿内への足がかりを作ろうとした。】ということが書かれていました。
<物部氏の系図>
物部氏の系図はいくつかあり、【伊福部氏 系図】などが有名だが、ここでは【諸系譜 第1冊】にある【物部大連 十市部首】をベースに記載する。
※なお、「諸系譜」は国立国会図書館などで無料で閲覧が可能です。
「日本書紀」や「古事記」では 、「物部」氏として登場するのは、「物部十千根」からである。
また「伊香色雄(伊迦賀色許男・いかがしこお)」が 記紀では10代 崇神天皇の頃に記載されている。
そして「大綜麻杵(おおへそき)」は『日本書紀』の崇神天皇紀に崇神天皇の母・伊香色謎命の父として記載さている。
<ちょっと考察します>
これまで紹介した出雲口伝の関連書籍によれば「大綜麻杵(おおへそき)」や「伊香色雄(いかがしこお)」の世代に物部一族は九州からやって来たことになる。
そうなると、それより前の世代となる「大矢口根大臣」や「出石心大臣
」、「出雲醜大臣」、「彦湯支命」などは、九州で暮らしていたのでしょうか?
これらを調べないとスッキリしないので、探っていきたいと思います。
(つづく)