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大彦命と武渟川別命⑮越後:彌彦神社

「大彦命」と「武渟川別命」の親子について伝承を調べています。
 大彦は 孝元天皇(8代)の皇子ですね。

 新潟県にも「大彦」を祀る神社がありますので、ここで紹介したいと思います。 (※三宅神社は前回の記事で紹介しています)



<彌彦神社>

御祭神:伊夜日子大神(いやひこのおおかみ) 
 御名:天香山命(あめのかごやま)
所在地:新潟県 西蒲原郡 弥彦村弥彦
御由緒:
 神武天皇(初代)4年、天香山命は越の国平定の勅を奉じて日本海を渡り、米水浦(よねみずがうら・弥彦山の背後・長岡市野積)に御上陸されました。当地では住民に漁業・製塩・酒造などの技術を授けられ、後には弥彦の地に宮居を遷されて、国内の悪神凶賊を教え諭し万民を撫育して、稲作・畑作を始め諸産業の基を築かれました。
そのため、天香山命は越後開拓の祖神とされています。

 天香山命は孝安天皇(6代)元年2月2日に越の国開拓の神業を終えられ、神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まりとされる。
 下って崇神天皇(10代)の御代に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営した。

『摂社末社で祀られる一族』
・熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)  : 天香山命の妻
・天五田根命(あめのいつたねのみこと)  :第1嗣(天香山命の御子)
・天忍人命 (あめのおしひとのみこと)  :第2嗣(天香山命より三代)
・天戸国命 (あめのとくにのみこと)   :第3嗣(天香山命より四代)
・建筒草命 (たけつつくさじんじゃ)   :第4嗣(天香山命より五代)
・建田背命 (たけたせのみこと)     :第5嗣(天香山命より六代)。
・建諸隅命 (たけもろずみのみこと)   :第6嗣(天香山命より七代)

『余談ですが・・・』
 一般的な神社のお参りでは、「二拝二拍手一拝」とされていますが、
当神社では、「出雲大社(島根県)」や「宇佐神宮(大分県宇佐市)」と同じ「二拝四拍手一拝」とされています。

<ちょっと考察です>

 この神社での伝承によると、「天香語山」が神武天皇(初代)の御代に、越の国にやってきて、孝安天皇(6代)の御代に開拓を終えたとされています。

 そのため、この神社の御祭神は「天香山」とされ、その一族が摂社末社に祀られており、「籠神社(京都;丹後一宮)」を祀る「海部氏」や「熱田神宮」を祀る「尾張氏」と同氏族の存在を伺わせます。

 しかしながら、その後「記紀」の伝承では「孝元天皇(8代)」の皇子である「大彦」が「崇神天皇(10代)」の御代に、「開拓」を終えたはずの「北陸」へ進軍することに矛盾が生じています。
 また北陸地方では、「天香語山」の一族よりも、「大彦」の末裔とされる氏族が多く残っており、その伝承が多くあります。

 そのため、天香山命が越後に祀られるのは不自然であり、本来の祭神は「大彦命」ではないかとする説が存在します。


<阿彦の乱:伝承>

 「越の国」の古代伝承を調べると、「垂仁天皇(11代)」の時代に「阿彦」という人物が登場する伝承が出てきます。「阿彦」は「記紀」には記載されていないが、富山県などの伝承で登場します。

 要約すると以下のとおりです。
=====
孝元天皇(8代)の皇子である【大彦】が『越の国』を平定した。
平定の後、『手刀摺彦』を長として、また『手刀椎摺彦』を副として統治を託した。

 垂仁天皇(11代)の御代に 越中で「阿彦の乱」が起こった。『布勢神』の後裔である【阿彦】は当初協力関係にあったが、乱を起こした。

そこで、勅命を受け【大若子命】がやってきた。越前国毛比港(敦賀・気比神宮)より海路で、石瀬(上新川郡岩瀬港)に上陸し、戦った。【佐留太舅】の謀を用い、阿彦を滅ぼした。その功により【大若子命】は『大幡主命』という名を賜わった。
 その後、功績を残した【美麻那彦】を国を治めることとなった。なお、【美麻那彦】は【大彦】の後裔とされている。
=====

※なお、「阿彦」「布勢神の後裔」ということであり、「阿彦」「大彦」の後裔だったと思われます。


『参考情報①』越中古代史を探る 雑誌GoodLuck(2012.9)


 ↓ここに詳しく書いていました。ぜひ読んでほしいです。
富山観光遊覧船株式会社(松川遊覧船)のHPより
https://matsukawa-cruise.jp/yomimono/ettyu-kodaishi.pdf


『参考情報②』:八幡宮(富山県砺波市高波)

御祭神:譽田別尊、大若子命、姉倉比賣尊
御由緒:垂仁天皇81年の頃、【阿彦】と言う兇悪が 居り暴悪増長限りを尽したれば天聴に達し大若子命 に阿彦討伐の勅令が下った。
 大若子命、越路下向あり、 越の小竹野に玉趾を留め宣議を凝らし給う処白姥現れ、八権八折を授け給ふ。大若子命は教に従い八鉾の幡 を作り【阿彦】を攻め給う、程なく【阿彦】討死し乱を平げ 凱旋し給う時、茲に祠を建て八鉾の幡を納め給い八幡宮と称え崇め奉る。


『参考情報③』大幡神社(新潟県佐渡市大倉小平)

御祭神:大股主命
御由緒:貞觀三年(861)の創祀。
 『宝暦寺社帳』には大股主命とあり。
 「大股主命」は開化天皇の第三皇子【比古座王】、即ち後の四道将軍の内なる【丹波道主命】の長子とある。
 (※つまり【彦坐王】の長男である【大俣王】のこと)

 【狭穗彦の変】に方り、其【家長】たるの責を負ひ、豫て叔父【大彦命】に從ひ此地に至りし縁由もて、再び佐渡に渡り朝延に対し謹愼の意を表し、地方開発に努めたりと云ふ。

 又の説に、【大股主命】は【大幡主命】にて、【大若子命】とも称し、天御中主尊の裔【彦久良爲命】の子なり。垂仁の朝(11代)北狭を平げたる功に依、【大幡主命】と改称せられしと云ふ。

<ちょっと考察です>

 【大若子命】というと、一般的には【天村雲】の後裔で【彦久良為命】の御子とされています。そして、伊勢神宮の神主「度会氏」(わたらいし)の 祖先神もされています。
 そして、【天村雲】の父が【天香語山】であることから、この【大若子命】(大幡主命)は、【天香語山】の後裔とも言えます。

 しかしながら、この神社では【大若子命】は【彦坐王】の長男である【大俣王】の別名であると伝承されています。

『参考情報④』魚沼神社(新潟県小千谷市)

御祭神: 天香語山命

天香山命(あめのかぐやまのみこと)が祀られており、別名「上弥彦神社」とも呼ばれている。

 その一方で江戸時代後期に編纂された「北越雑記」によると、この社の神官が『当地は弥彦明神が越後国に最初に降臨した地で、阿彦を祭る社である』と主張した旨が記されています。


<ちょっと考察です>

 【「彌彦神社」の御祭神が「大彦」だった】とすると、どのような経緯で、御祭神は「天香語山」となったのでしょうか?

 私が調べた限りでは、定かではありませんでした。調べ足りないのかもしれませんが、現時点では、「古代史好きのただの素人」という特権を活かして、勝手な妄想を膨らませてストーリーを描いてみました。

1.「大彦」の死後、「大彦」を祀る神社が作られた。それを作ったのは「大彦」の後裔の中でも、「阿彦」に近い一族だった。

 2.「阿彦」の乱のあと、その神社では「阿彦」の痕跡が消され、「大若子命」(大幡主命)の祖である「天香語山」を祀る神社として上書きされた。

 いかがでしょうか?

 カスリもしない妄想かもしれませんので、また情報が増えれば、精度を上げていきたいと思います。

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