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彦坐王の血統⑫神功皇后のルーツ(朱智神社)

  これまで、開化天皇(9代)の皇子である「彦坐王」(日子坐王)やその息子達が、畿内北部で大きな勢力をほこっていたことを示唆する「いくつかの神社の伝承」を取り上げてきました。

 実は、仲哀天皇(14代)の皇后で、朝鮮出征など数々の伝説を残す『神功皇后』も「彦坐王」(日子坐王)にルーツがあることはご存知でしょうか?   
 この記事では、二人の関係性について紹介したいと思います。


朱智神社 (伝承が残る神社)

  所在地:京都府 京田辺市 天王地区

御祭神:
迦爾米雷王命(かにめいかづちのみこと)、 
配神:  建速須佐之男命、 天照國照彦火明命
大筒城眞若王


 迦邇米雷王は開化天皇の曾孫で神功皇后の祖父にあたり、垂仁天皇の御代にこの地を治められて、その子孫が朱智姓を名乗った。 

 須佐之男命が相殿として祀られたのは桓武天皇の御代。
 その後、清和天皇の御代に、大宝天王(牛頭天王)を、現在の京都八坂神社に遷し、毎年「榊遷し」の行事を行っていたが、何時よりか無くなりました。
 ※そのため、八坂神社の元となる神社といわれている。

上記の御由緒では、
「仁徳天皇の69年に、社殿を建てて、朱智天王と号しました。」
とあるのですが、同じく境内にあった別の御由緒では
「社伝では、宣化天皇元年(535年)に、天王号を付け、朱智天王と称した」とされています。

少しゆらぎがあるような表現ですが、2つの文言から
(1)仁徳天皇の69年に、離れた山頂に社殿を建てて、創建し
(2)宣化天皇元年(535年)に朱智天王と称して、この地に遷した。
と推察します。


本殿左側面に並ぶ摂社 (手前から撮影)

本殿の周囲には摂社が取り囲んでおり、由緒の深さを伺わせます。

摂社は、反時計回りで
(左手前)→住吉神社→大高神社→三社大神社→朝日神社→大土神社→白山神社→稲生神社→(左奥)


本殿右側面に並ぶ摂社 (奥から撮影)

摂社は、反時計回りで
(右奥)→金神社→祈雨神社→鎮火神社→春日神社→皇大神宮→天津神社→(右手前)


 ちなみに この神社へ行く道は本当に狭い道で、自動車で神社前まで行ってしまうとUターンもままならない状態になります。
 随分手前に自動車を駐めることをおすすめします。

淀川から大和に入るに重要な位置にある。


神功皇后の系図

以下に、神功皇后の系図を記載します。

 『山代大筒木真若王』
 この朱智神社に祀られている「山代大筒木真若王」は彦坐王の子である。その名にある「山代」は「山城國(京都)」のことであり、「筒木」とは、このあたりの地名である。
 京田辺市も「市政」になる前は「綴喜郡田辺町」と「つづき」の付く郡にありました。
 「真若」は「息長氏」によく見られる名前で、異母兄弟にも「真若王」があり、その母にも「息長」が見られる。

 「山代大筒木真若王」は姪と結婚し、この朱智神社に祀られている「迦爾米雷王命(かにめいかづちのみこと)」を生んでいる。


迦爾米雷王命
 この朱智神社の主祭神が「迦爾米雷王命」である。垂仁天皇(11代)の御代に朱智神社の周辺を治めていた。
 そして、そのころに異母兄弟である狭穂彦命」が大和盆地の北部で「垂仁天皇」と軍事衝突を起こすこととなる。
 そのような事件を乗り切って、子孫はこの地域で「朱智姓」を名乗ることとなる。


『息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)』

 「迦爾米雷王命」の子である「息長宿禰王」は「息長姓」がある。
 この「息長宿禰王」は天之日矛(天日槍)の子孫である「葛城之高額比売」と結婚をして、『神功皇后息長帯比売命)』を生むこととなる。
 妻である「葛城之高額比売」の叔父は「田道間守」であり、「田道間守」は「垂仁天皇(11代)」の忠臣で知られている。

※ここからはちょっと考察です。
 近い身内が、反乱を起こし、立場が危うくなった「迦爾米雷王命」は、その子である「息長宿禰王」の妻として、「垂仁天皇」の忠臣である「田道間守」の姪を迎えたということかもしれません。

 もしくは「垂仁天皇(11代)」の忠臣「田道間守」の姪を迎えていたので、近い身内が反乱を起こしても、奈良に近い地に拠点を残すことができたということかもしれません。

 上の系図を見ると 名に「丹波」や「多遅摩(但馬)」が登場しており、このような畿内北部に強い一族だったことが伺えます。




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