丹波王国の弥生墳墓
ここまで開化天皇(9代)の皇子である「彦坐王(日子坐王)」の一族について情報を集めてきました。
これらについて前回の記事に続き、考古学的な視点で確認してきたいと思います。
<丹後地方における代表的な弥生墳墓>
ここでは、丹後地方にある弥生時代終盤の墳墓をいくつか紹介します。
【大風呂南墳墓】(2世紀後半)
【赤坂今井墳墓】(2世紀末~3世紀初)
※なお、他にも、弥生時代後半に築造された丹後最大規模の弥生墳墓として、【左坂墳墓群(京丹後市)】などもあります。こちらは、棺の近くに土器を割って供える但馬地方と共通する埋葬儀式が行われていました。
<大風呂南墳墓>(2世紀後半)
【大風呂南一号墓】からは以下のような豊富な出土品があり有名です。
腕飾り(ガラス釧 1箇、銅釧 13箇、貝輪残欠 1箇)
玉(ガラス勾玉 6箇、碧玉管玉 356箇)
鉄製品(鉄剣 14本等)
出土品として、完全な形を留める日本で唯一の弥生時代のガラスの腕輪。
日本大陸との交易によって入手したものと考えられている。
<赤坂今井墳墓>
(2世紀末~3世紀初)
この時期としては全国でも最大級の墳墓。
埋葬施設は墳頂部に6基、墳裾の平坦面に19基以上存在。
●第一主体の墓坑(墳頂部の中心)
長辺14m、短辺10.5mの巨大な墓坑に木棺が納められていた。
※他に例をみない大規模な墓坑。
※墓坑上面からは円礫と破砕された土器が出土している。
木棺内は 調査予定だったが、墳墓構造が崩れるという理由で、調査が中止となっている。そのため、現在も詳細は不明となっている。
⇒なぜ、未だ調査がされてないのか?
常識を覆すような遺物が出土するのではないかと期待が膨らむ墳墓です。
●第四主体の墓坑(2番めに大きな墓坑)
長辺7m、短辺4.2mの墓坑。
※第一主体部と同様に円礫と破砕された土器が出土している。
土器は第一主体部と同じ時期
木棺からは、真っ赤な水銀朱とともに壮麗が頭飾りと耳飾り(両耳に着けた垂飾り)一式が出土している。鉄剣1点、ヤリガンナ1点も出土。
頭飾りは、深緑色のガラス勾玉と淡い青色のガラス管玉や碧玉製管玉を組み合わせて作られており、ハチマキ状の布に玉を取り付けて頭に巻かれていました。これらから被葬者は女性と推定されています。
また青色のガラス管玉には、秦の始皇帝陵の兵馬俑の彩色にも使われた「漢青」という人工顔料が含まれていました。
<大田南古墳群>(3世紀中頃)
卑弥呼の時代ですね。
弥生時代と古墳時代の境目ですが、こちらは弥生墳墓でなく古墳に分類されています。
●大田南2号墳(方墳)
・22メートル×18メートルの方墳
・舟底形の木棺
・「画文帯環状乳神獣鏡」(二世紀後半の早い頃の製造)が出土
※中国四川省の官営工房で製作と推定
●大田南5号墳
・12m×19mの方墳
・組合せ式石棺
・棺内に鏡と鉄刀1本が収められていた。
「青龍三年」(魏の明帝の年号で235年)の銘文をもつ方格規矩四神鏡(重要文化財)が出土
<誰が埋葬されているのか?>
世には様々な見解があると思いますが、これまでの記事から、2世紀後半から3世紀初めは、孝元天皇(8代)や開化天皇(9代)の時代と ここまでの記事より推察しています。
記紀には「丹波」のゆかりのある人物として、「開化天皇の妃」である「竹野姫」が登場します。 具体的には「竹野姫」は「丹波大県主」である「由碁理(ゆごり)」の娘と記載されています。
そして、『勘注系図』によると、「天火明命七世孫」である「建諸隅命」が「由碁理(ゆごり)」とも呼ばれていたとあります。
また、『勘注系図』によると「建諸隅命」の父は、「建田勢」(天火明命六世孫)で、「孝霊天皇」(7代)の時代に 山背国(京都)の久世郡水主村に移り住んだとある。このころ「大和国」と「丹波国」と密に繋がっていたことが伺えます。
そして、「建諸隅命」の子は、「日本得魂」(川上眞若)(天火明命八世孫)です。彦坐王と共に、陸耳御笠討伐に加わったり、豊鋤入姫が大和から天照大神を眞名井原の「匏宮」(元伊勢)に移したときに関わったとされています。
「建田勢」や「建諸隅命(由碁理)」の周辺人物が、これらの弥生墳墓に埋葬されているものと推察します。
この時代の遺跡の発掘が進むと、「彦坐王(日子坐王)」の一族にゆかりのある遺物が発見されるかもしれませんね。