駅弁を食べる為に電車に乗った2014
2023 1/10(火)
しばらく日記が滞っている。
こういう時は、昔、書いた文章を掲載するのがいいだろう。
ネットには載せていたものの、5人くらいしか読んでなかったエッセイである。
今回は、2014年に書かれたものだ。
駅弁を食べる為に電車に乗った 2014・1
駅弁を食べる為に電車に乗ろうと思った。
駅弁を食べる、正確には食べても自然なのは、新幹線などの座席が箱型の類で、これを横型などのJRや地下鉄で実行するとなると、途端に、狂気。
事実、以前、山手線の中、俺の目の前で弁当とビール、そしてシメにエクレアを食べながら、ニヤニヤと笑うおっさんを目撃したことがあった。
車内に居合わせた乗客は、おっさんが至福の表情でランチタイムを堪能しているゆえ、一切の口を挟むことは危険と感じたが、せめて今、不愉快であるという、集団全体の事実を伝えるべく、無言で怒りの視線を顕わにした。
だが果たして、このおっさんそんなに迷惑なのか。
と言うのも、もし、おっさんの乗っていたのが新幹線だったとしたら、そこに一切の狂気はない。
むしろ、車窓からの移りゆく風景を弁当とビールで情緒的に盛り上げ、甘いエクレアでホッとしながら、ゆっくりと長旅を楽しむ。
そこには、極めて大人の贅沢な時間が流れており、真似さえしたくなる。
だが、それを一端、横型の座席でやられると悪夢。
ひとたび車内に充満する弁当とビールのにおいは、食べ物のにおいにもかかわらず嫌悪、いや、憎悪すら感じてしまうのだ。
これが新幹線の中であれば、つい、つられて、こちらも腹が減ってきてしまい、ああ、何故、出発時にホームで弁当を買ってこなかったのかと後悔しながらも、そうだ、車内販売があるじゃないか!
と、今更ながら、新幹線の利便性に気付いて、乗客はおろか、売り子の能力給アップにも繋がっていき、誰もが幸せになれる楽園の誕生である。
横型の山手線と、箱型の新幹線で、こんなにも違うものなのである。
これでは、駅弁を食べる為に電車に乗ろうと思っても、汽車賃が破格に高い新幹線などの類を選ぶことはナンセンスにつき、だったら、手頃な汽車賃で、それを満喫する方法はないものかしらんと、考えるよりも、まず先に行動だと、最寄り駅の練馬のスーパーにて、鳥そぼろ弁当を購入した。
これは正確には駅弁ではないが、駅前で買ったからそう呼ぶことにしようと完全なる妥協をした俺は、鳥そぼろ弁当の入ったビニール袋を、そぼろがずれないように、手のひらで、その耐震性を気にしながら、西武池袋線のキップ売り場周辺にて、京都の銀閣寺の哲学の道よろしく、「駅弁を食べる為に電車に乗る」という、卵が先かニワトリが先か以来の人類最大の謎の思索にふけっていた。
そんな中、ふと見ると、西武秩父の魅力を紹介するポスターが目に止まった。
湯けむりの中、浴衣姿の、吉高由里子がほっこりした顔をしているポスターを見て、若い女の一人旅でも珍しいのに、このような美人が、一人でほっこりしている光景は、まず現実にはあり得ない。
このポスターに限らずだが、どうして旅行会社は、このような嘘を平然とつくのかという実にどうでもいい怒りが頭をよぎった刹那、ふと、そういえば以前、西武秩父の横瀬という場所へ行ったことを思い出した。
昭和から時間が止まっているような横瀬という駅の改札口を出てると、電動自転車を借りた俺は、四国八十八のミニチュア版のような札所めぐりをし、最後は、近くの武甲湯という温泉につかるという、老後の楽しみのような一日をすごした。
これから、あそこへもう一度行ってみるのも悪くはない。
そう思った俺は、そう思ったのだが、一応、途中で気が変わってもいいように、切符を一駅分だけ購入して改札口へ入った。
(俺には、パスモやスイカなどといった、チャージ式のカードはあいにく持ち合わせてはいない、あれは、確かに便利だが、1000円単位でしかチャージできないのをなんとかしてほしい。チャージ出来る奴は、はっきり言って金持ちである。これは貧乏名言集として後世に残してほしい。)
武甲湯がある横瀬駅へ行くには、ここから飯能駅まで行き、西武秩父線に乗り換えて、トータル、一時間半くらいかけて、のんびり行く方法か、特急のレッドアロー号という列車に、高い料金を払って早く行くかの二種類で、当然、そんな愚行は宝くじが当たっても行わないであろう俺は、ごくごく普通に、西武池袋線の練馬駅から、西武秩父線の横瀬駅に向かうことにした。
だが、乗車して5分とたたない内に、俺は、もう鳥そぼろ弁当が食べたくてたまらなくなってしまっていた。
いけない、ここで食べたら、新幹線でいう所の、東京から「のぞみ」に乗って、品川に着くまでに駅弁を食べ終えるという、情緒もへったくれもない、早弁ビジネスマンの類と同じになってしまう。
(これは俺が新幹線に乗る度に、よく見る光景の一つである。彼らは、たいてい、東京駅で乗った瞬間に駅弁のフタを開け、フタの裏についた米粒をはがす余裕もなく、品川に着いた頃には、すっかり食べ終わり、あとはパソコンに向かって、ジョージアを飲んでいる。同様に、品川で乗った場合も、新横浜に着く頃には、パソコンにジョージアで、ヨロシク、である)
そうだ、せっかく駅弁を食べる為に電車に乗ったのだ、西武秩父線の、あの、新幹線にも似た箱型の座席の窓側に座って、横瀬までの車窓からの田園風景を満喫したい!
一駅分の切符で、行き先に気分が揺らいでいたさっきまでの俺はどこへやら。
ここで一気に固く誓った。
俺は横瀬駅で乗り越し精算をしてやる、ざまぁみやがれと。
そんな訳の分からない気分の高揚の中、横型の座席で首を斜めに向けて、平凡な住宅風景を眺めながら、俺は、気を紛らわせる為、しばらく、ポケットに入っていた「フリスク」で難を逃れることにした。
そんなスースーした気分の中、車窓からの風景は、所ジョージ生誕地の所沢を越え、志村けん生誕地の東村山を越え、50分程、電車に揺られた所で、乗換え地点の飯能駅へ到着した。
秩父線に乗り換えるには、階段を上がってホームへ行くのだが、その途中にある売店は、本当に助かる。
というのも、もちろん、ここで飲食物などの買い出しは便利なのだが、それ以外に、もっと助かるのは、タイミングによっては、待ち時間が長い場合があり、その際、絶対に買うことのない週刊誌の数々を立ち読みして時間をつなげるからである。
早速、俺は、週刊ポスト、ヤングマガジン、ニュートンなどを乱読し、待ちに待った、鳥そぼろ弁当を食べるべく、やって来た秩父線に乗り込んだ。
(しかし、コンビ二などでもそうなのだが、逆に、普通の本屋になかったりする時がある科学雑誌のニュートンが、なぜこういう場所に置かれているのかは謎である。たまに、コンビニなどで、半分エロ本みたいな雑誌の間に、ニュートンが置かれているのを、寄稿したお堅い科学ライターたちは知っているのだろうか。)
ホームから、ゆっくりと電車は動き始めた。
ガタゴト、という効果音でしか表現できない位、電車はゆっくり、ガタゴトと動き出した。
車窓からは、いつ見ても、誰もが、あの日に帰れそうな風景が横瀬まで続いていった。
俺は、たまらなく、色々なことが懐かしくなって、お腹が減ってどうしようもなくなってきて、涙がぼろぼろ、ではなく、予想以上に多かった、鳥そぼろ弁当の中のそぼろを手のひらに、ぼろぼろこぼしながら、時間をゆったりと味わった。
そして、横瀬駅に着いて腰をあげると、膝の上から、鳥そぼろが、また、ぼろぼろとこぼれた。
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