神の存在証明

—個人的な結論—
キリスト教で言う再臨の時まで。神の存在は、
“有無の狭間”
のまま、論理の水面に鮮明な泡を見せる。

観測•接触に在るA≠非(観測•接触)に在るA

—おまけ—
:神は居ない:
科学的には正解。
しかし真理の探究では、少しの早老に因る翳目を去る夢現。

“神は居る”
非科学的。
だが、合理的ではある。

—おまけのおまけ—
•私は、私にとっての不可視に在る今の貴方を永続して証明する事は出来ない。
が、私は殺めた気はしない。逆に、
今の私を知らない貴方の科学は、私の身分を”世から永遠に韜晦した者”として墓に刻むのだろうか。

•貴方に対する懸想は証明されていないが、想う者の中では存在している。
故に貴方は、両想いに在ると気付いて居ない。
実行を迷い、疑う貴方は。告白に確証が萌すと知っていながら、非科学的が故の不在性を案じている。
見兼ねて言うが。蹶起を吹かす為だ、悪意は無い。

“遺言に懸想を知ってから、久しを経るのは嫌だろう?”

•枷を被る身柄に与えられた自由は、
頭でも踏み、祈りを掬び翳す唯一だけ。
主が成した心海を、狭き身振りで窓差す落陽に
“God bless you”
と残す事。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?