シェアハウス・ロック(or日録)0128
笑いながら走る女
標題は、中島らもさんのエッセイ集のなかの文章のタイトルである。エッセイ集の名前は忘れたが、『獏の食べ残し』といったような気もする。
さて、このタイトルは、これが夜の話だったら相当に恐いが、そういう恐い話ではない。
たとえば、駅のそばを走っている女がいる。らもさんは、彼女らはたいがい笑っているという。これはどういうことなんだろうと考えたそうだ。
らもさんの結論は、彼女らは、
私、普段はこんなにあわてることなんかないのよ。
でも、今日は段取りを間違えちゃって、こんなにあわてるはめになっちゃったのよ。
しょうがないわねえ。まあ、自分のドジさ加減を笑うっきゃないわよねえ。
といって笑っているのである、というものだった。
これを読んで、私は、「そうなのかなあ」と思ったり、「本当かよ」と思ったり、つまり、なんてことのない話なのに、妙に記憶に残った。
さて、去年の秋に、わが孫、めいちゃんの運動会に行った。こういうのに参加したことがある人はおわかりかと思うが、我が子、あるいは孫、せいぜい彼ら/彼女らの友だちといった子どもたち以外は、誰が走っても、あたりまえだが、あまりおもしろくはない。
ところが、我が孫の出番が終わり、そそくさと帰るのは、多少はばかられる雰囲気がある。で、ほかの子の走るのも見ていたわけである。
それで発見したのだが、男の子はまったく笑わない。女の子も、2年生までは誰も笑わない。ところが、女の子は3年生くらいから笑う子が現れ、その出現率は年次をあがるにつれて増えていき、6年生になると、笑わない子のほうが少なくなっている。
これはどういうことなんだろう。自意識となにか関連するのだろうか。でも、男の子だって自意識ぐらいあるだろうに。
吉田兼好は、『徒然草』の第五十二段で「なにごとにも先達はあらまほしき事なり」と言っている。「なにごとにも」ではなく、「少しのことにも」だったかもしれない。両方とも見たことがあるような気がする。
中島らもさんという「先達」がなければ、こんなことは考えもしなかっただろうけど、まあ、あまり考えてもしかたないことではあるな。
でも、多少は退屈をまぎらせることはできた。