シェアハウス・ロック1202
宇和島紀行6
今回は、伊達宗城の「蘭癖」について。
「宇和島紀行31129」でオランダおいねの話をした。これも「蘭癖」の一端である。『渡辺崋山』(杉浦明平)にも「蘭癖」という言葉が何回か出て来たと思うが、ようするに「紅毛贔屓」ということである。たぶん、であるが「癇癖」の「か」を「ら」にしただけでつくった言葉なんだろうな。
宗城の「蘭癖」はかなり本格派である。
たとえば弘化四年(1847年)、宗城は幕府より砲術蘭書を借覧し、帰国するとそれを基に砲術の演習を繰り返し、また弓組を鉄砲組に改組するなどした。砲術への興味は同書で初めて喚起されたわけではなく、先立つ弘化元年には焔硝製造所を設置、翌弘化二年には大筒鋳立場も開設している。後のことになるが、アームストロング砲も自前でつくっている。
八幡浜生まれの嘉蔵(本職は仏具、具足、提灯などの細工師)には、蒸気船をつくれという無茶振りをしている。嘉蔵は器用なことで知られた人物で、網曳き用の轆轤をヒントに外輪の仕掛けをつくり、上覧に及んだ。宗城は喜んで、二人扶持五俵で御船手方に登用された。嘉蔵クン、どんどんと深みにはまっていく。
三度にわたって長崎に留学し、さらに薩摩藩にも学びに行き、安政六年正月、試運転にこぎつけた。小型で速力もでなかったが、純国産の蒸気船第一号である。
嘉蔵はそのほか、木綿織機、ミシン、ゲーベル銃と雷管などを開発した。幕末宇和島のエジソンと呼びたい。
宗城は、こういうぶっそうな方面だけでなく、医学、語学方面でも「蘭癖」だった。
宇和島藩は多くの蘭医を擁した。緒方洪庵門下10人、伊藤玄朴門下13人、華岡青洲門下5人など。
弘化三年、江戸において天然痘が大流行したが、伊藤玄朴らが正子(宗紀七女)に種痘をほどこしたため、正子は顔に軽微な痘痕を三か所残すのみだったという。
嘉永五年(1852年)には、宇和島に種痘所が設置され、藩医が種痘にあたり、次第に民間医にも波及していったという。
蛮社の獄で入牢した高野長英も、脱獄後、宗城の腹心・松根図書により、招聘され、宇和島に一年ほど逗留し、蘭書の翻訳をし、また蘭学を教え過ごした。
村田蔵六(大村益次郎)は周防の人だが、宇和島に長逗留し、藩のお雇い蘭学者として、洋式軍隊と軍艦建造の研究を行い、藩士に講義をした。オランダおいねは、蔵六の塾でオランダ語を習った。蔵六は、宇和島藩士として幕府の蕃書調所の助教授、講武所の砲術教授に迎えられ、後、乞われて長州藩に仕官することになった。
京都で刺客に襲われた蔵六を看取ったのは、おいねと娘夫婦だったと言われている。