シェアハウス・ロック(or日録)0217

『一円玉の旅がらす』

 2月15日の毎日新聞「余禄」は、

 演歌「一円玉の旅がらす」がNHK番組「みんなのうた」で放送されヒットしたのは、1990年だった。

で始まる。内容は、トランプ大統領が「ムダ遣い」だとして1セント貨の製造を中止する指示を出したことにまつわる話だ。鋳造に2セント以上のコストがかかるという。
 私がひっかかったのは、「演歌」である。あの歌は演歌なのかと思ったのだ。もちろん、トランプのやることなすことにひっかかっているよ、私は。言うことにも、である。だが、今回のお話はそっちではない。
 ちょうど私の長女、長男が「みんなのうた」の適齢期であったこともあり、この歌はリアルタイムで知っていた。そのころ私は、「これは演歌のパロディの童謡だな」と感じていたのである。
 今回、「演歌」にひっかかり、調べてみたところ、この歌は作詞・荒木とよひさ、作曲・弦哲也。お二人とも、演歌の大御所である。では、この歌は演歌なのか。
『一円玉の旅がらす』に近接しているものに、『北風小僧の寒太郎』がある。作詞は井出隆夫(山川啓介)、作編曲は福田和禾子。こっちの初出は1972年、NHKの『おかあさんといっしょ』内のコーナー「うたのえほん」である。だから、作詞、作曲者から言えば、『北風小僧の寒太郎』は童謡と呼んで不思議はない。
 初出では田中星児が歌い、堺正章、北島三郎と歌い継がれていったが、北島三郎になれば、演歌と言ってもいいような気もする。
 田中星児が歌えば童謡で、堺正章でちょっとあやしくなり、北島三郎で演歌となる。本当かね。本当だったら、「演歌とは歌い方」という結論になってしまう。
 お話ししていることは、音楽のジャンルについてのように思われるかもしれないが、私は、音楽にはジャンルなどなく、いい音楽、よくない音楽、ダメな音楽、つまらない音楽しかないと思っている。よって、今回申しあげているのは「意味」についてというのに近い気がする。
 つまり、「意味」は言葉単独では成立せず、まず文脈において、そしてその対向の概念や、類似の概念によってだんだんと定立していくように思える。だから辞書にある意味は、ほとんど死んでいる。
 音楽も同じような過程を経て、「これはジャズ(かな?)」「これは演歌(だと思う)」「これは童謡(に聞こえる)」というようになっているのではないか。
 まだ私の申しあげていることはわかりにくいと思う。ごめんね。
 文脈、対向概念、類似概念によって「意味」が定立していくというのは、童謡に関しては非常にはっきりしている。
 小学唱歌の文語がわかりにくく、子どもたちにもわかる歌をという主旨で誕生してきたのが童謡である。ここで、小学唱歌という概念を対向として置いたため、童謡が非常にはっきりすることになる。このあたりは「童謡と唱歌0107(23)」に詳しく書いている。
 今回のお話は、入口と出口に整合性がないが、対向概念、類似概念といったネットワークに乗ったものが「意味」であり、また、今回扱った「ジャンル」も、今回の限りにおいてはこれに近いものであるということになる。

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