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叔父とぼく〜その淡い愛情物語〜

以前わたしは「可愛いのが好きだった」の中でわたしが男を知った経緯を書いた。その中である方々から、これはペドフィリアではないか、とのご批判を受けた。

確かにあの中で語る時にあまり叔父と幼児のわたしの性的な営みを臆面もなく語ってしまい、誤解を招いたことをここに謝罪したい。

と同時に、叔父がそのような人ではなかったことを説明しなければならないと思う。叔父は本当に愛情深かったし、わたしは叔父を愛していた。

叔父は大正15年生まれで、若くして結核を患い、結局兵隊にも行けず、結婚もできずに、地方の公立大学工学部を卒業後、ただ父親の跡を継ぎ鐵工所の社長になった。

彼の楽しみとて、ただ古典を読み、クラシック音楽を楽しむことだけであったので、会社経営者以外の顔は寂しいものであった。

そこにわたしが預けられるようになり、叔父にもう一つの生き甲斐が生まれたのだ。叔父はわたしに叔父がしたくてもできなかったことをさせようと凡ゆる分野の楽しみを教えようとした。運動も文化的生活も知りうる最良のものを与えてくれた。わたしは叔父のお気に入りだったわけだ。叔父もわたしのお気に入りだった。

だから、叔父のように生きたいと願い、同じ新聞を読み同じテレビを観た。
幼い頃にはわからなかったことも段々とわかるようになり、わたしは周りの友だちより少しませた子どもだったかもしれない。

そんな毎日の生活において、わたしは人一倍臆病で、それなのに、みんなの注目を浴びる存在になって行った。幼稚園の頃は毎日女の子たちに追いかけ回されて、転んで膝小僧を擦りむき、ずっと泣いていた。だから、幼稚園の時の自分自身の印象は良く泣く子どもというイメージだったが、小学校に上がってから、母からは「あなたは良く女の子にモテてたんだよ」って言われたものだ。自分ではすごく意外だった記憶がある。わたしは女の子が怖かった。

母はわたしを色白にさせたかったようだったが、父が猛反対してそのことで夫婦喧嘩になった。その理由は、父は七人兄弟の末っ子だったが、すぐ上の兄が自分が色白を好みいつもスキンクリームを塗っていたらしい。どうも彼はゲイだったようだ。彼はリヤカーの後輪に踵を踏まれ破傷風で命を落とした。父は彼がいつもスキンクリームを塗っていたから、抵抗力もなくバイ菌に冒されて死んだとよく言っていた。その叔父は顔立ちがわたしと良く似ていた。

そんな幼少期を過ごしながら、毎日を叔父の家に居て過ごした。叔父はいつもわたしを膝に乗せて可愛がってくれた。そして、少しずつ悪戯っぽくわたしに触れてきた。

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