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僕の過去と活動人生。

初めましてこんばんは
絵師・動画師・作詞・小説家・漫画家…など等、
多方面に活動をしています、
神夜律『かみや りつ』と申します。

現役保育大学生の18歳です。中性です。

ここでは、僕の過去と活動人生と、
僕が見てきた狭い狭い世界を、綴ろうと思います。

 闇深い話だったり、中々黒い話もあります。
だいぶ長い話になるのでちょっと苦手だなって方は
出口へどうぞw


1.冒頭

 これは、苦しみの中光を信じて生まれた1人の活動者の物語です。

2.狂った愛と気付けない異常さ(-小学生)

18年と半年程前1人の女の子が産まれました。 

上にお父さんの違う姉が1人いました。


標準の半分程度の体重と生まれ持った病気で

幼少期は同年の子との関わりはほぼありませんでした。

3歳の頃、拙い日本語で口にした少女の夢は
『アンジェラ・アキみたいにピアノを弾きながら歌いたい!みんなを歌で楽しませたい!!』
(その頃アンジェラ・アキさんの手紙という曲がリリースされ、その曲を聴いた3歳の僕はこんな風になりたい!と母に強く懇願しピアノを習い始めました。)


保育園4歳の頃、妹が産まれました。
お父さんは上2人どちらとも違います。


幼稚園5歳の頃、弟が産まれました。
小さな弱々しい命でした。お父さんは不明です

少ないながらも優しい友達と、母と妹と弟と姉と
幸せな日々だったと…もう、覚えていません。

少女が幼稚園の頃、弟が亡くなりました。 
まだ、生後3ヶ月程の小さい命でした。

ある冬の寒い日でした。
朝目を覚ますと既に亡くなっていて、
身体が冷たかったのと固くなっていたのを
幼心ながら覚えています。

少女は泣きませんでした。

母が取り乱し狂ったように叫んでいました。
それを見た少女は、自分が泣いたら迷惑をかける、
もっと大好きな母を苦しめることになる、

きっと多分…そう思ったんだと思います。


弟が亡くなってから母は、
酒を浴びるようになりました。

家の中には怒声と罵声と叫び声、、
幼稚園生だった少女には、ただ小さな妹を
泣かせないように笑顔で抱きしめることしか
出来ませんでした。ごめんね、

当時の母の記憶は、
もう母の中には無いそうです。

飛び降り自〇、OD、首〇り、リスト〇ット諸々
目の前で母が狂っていく様を、
 少女は止めるので精一杯で、

殴られ蹴られ、閉じ込められ、首を絞められ、

だいすきだった母の姿はもう何処にも無かったのに
また褒めて欲しくて、あの頃を忘れられなくて…

少女は自分を的に1歳半の妹を守ることしか
出来ませんでした。ただただ妹が大好きでした。

幼稚園の頃、姉は現状に耐えきれず家出。
その当時姉は中学一年生。
元々疎遠だった祖母の家へ逃げた姉が、
帰ってくるのはそれから7年後のこと。

姉が居なくなって更に悪化した母は怒りと苦しみを
少女にぶつけるようになりました。

小学生になり、友達ができ、家に呼ぶことがあった時、母は友達に優しくて、笑顔で、
そんな母の姿を少女の友達は
『いいなぁ~お母さん優しそう。羨ましい』
と言いました。

少女はそんな言葉で、家庭の異常に気付けませんでした。
(もしあの時虐待という言葉を知ってたらならもう少し変わった未来があったのかなと今でも思います)

小学1-3年間は何度も警察沙汰を起こし(窃盗、家出等)各所に迷惑を掛けていました。( '-'  )ワルイコダッタノヨ

そんな小学低学年、芸術面での才能はあり、
合唱コンクール独唱の部地区大会金賞
読書感想文、感想画、その他文学、芸術コンクールを軒並み名を連ねていました。

 成績も素行も基本的によく、
模範生徒のような少女でした。

だからこそ二重人格を疑われるほどに
行動が異常だったんです。

全部…見てもらいたくて、褒められたくて
かまって欲しくて、凄いねって…言われたくて。

いい賞を取ってもピアノを歌を頑張っても
母の心は満たされませんでした。
 漢字テストで99点なら殴られる…というような

(当時の勉強は五ミリ方眼ノートに一つの漢字を全てのマスにフリガナ書かずに埋める、それを1日5ページずつ…みたいな事をしてました。怖ぇ……。)

テストは100点が当たり前。
コンクールは賞状貰えるのが当たり前。
出来ないなら出来るまで自力でとことん詰める。

 思い出すとなんで誰もむしろ気付けなかったのかと言いたいくらいの異常な子でしたが

当時は虐めとかも酷くて笑笑
まぁあんまり治安のいい学校でもなかったから
大人からよく褒められるような子は
いじめっ子にとってもいい餌だったのでしょう

男子トイレ、プールの更衣室に閉じ込められる、
給食が無い、靴が無くなる、
こんなありきたりなやつ

そんな少女の心を支えたのは、
やっぱりずっと音楽でした。
歌が一番の味方。

そして4年生の頃から
だんだんと成績が落ち始め、
担任の先生とも馬が合わず、
親友の子(触れてないけど初恋の子)とも
疎遠になりました。

3.自分ってなんだろう、性に苦しむ(-中学生)

少女は親からの期待で中学受験を試みるも失敗、
大好きだった音楽を辞め、
理系の道へ進み始めました。

イラストや小説はこの時期から書き始めます。

この頃ぐらいから自分は周りの人と違う、
同じように出来ないことに苦しみ始めます。

制服、スカートを着て学校へ行く

女子トイレを使う

着替えは女子更衣室でみんなと

女の子だから、"私"

『女の子でしょ?もっと大人しく』

『理系って…女子なら文系がいいんじゃない?』

『なんか男子と距離近くない?』

 男の子を好きになるのが普通?

女の子だからズボンは着ちゃいけない

 髪が短い、女子ならもっと長い方が…

なんでなんでなんでなんで????
あれ、みんなは出来るの、?

みんなは不思議じゃないの?

これが普通なの、?

じゃあ…僕がおかしいの、?

少女は周りとの落差に苦しみました。
みんながしている恋愛話、
『この俳優イケメンだよね!』
『このクラスで付き合うならどの子?』

 「あ、うんカッコイイね」
「えーっと…○○ちゃんとか」
『え、冗談やめてよーどういうこと?w』
「あ、そう…だよねうんうん冗談あはは」

(まだよくわかんないや、ごめんね)

中学生の頃、何人かの人に告られて少女は殆どを断った。単純にいじめの可能性があるっていうのもあったし、やっぱり好きが分からなかったから。

初恋は女の子。
でも別に男の子が好きになれない訳じゃない。

スカートを着るのは凄く嫌だ。
でも…男子になりたいの?

……それはちょっと違うかもしれない。

 でも、女の子って括らないで欲しい。

もやもやと日々を暮らす中、
中学一年生、ボカロに出会います。
機械が歌を歌う、自由に感情を込めれるソレに
どっぷり浸かり始めるのはまだもう少し先のお話

当時好きだった先輩が好きだったから。
それが僕のボカロとの出会い。

中学2年生、少女はLGBTを知りました。
 きっかけは当時中学生の間で流行っていた
🍓👑 の❤🐶さんの『生まれてから、』という動画

僕が性別に苦しんでいたことを知った友達が
そっと送ってくれた動画です。

https://youtu.be/3YrdILsar4Y?si=e9MJKHX25cseH4Yr

『生まれてから、』莉犬

(ここで初めて苦しんでいたのが自分だけじゃない
自分らしく居られるんだと気付けました。
本当にありがたい動画だった。)

それから性とは何かを調べ始めた少女は
自分が該当するものを約2年近く探し続けます。
(今でもよく分からないんだけどね)
『中性・両性・多性・両性愛者』
ここら辺を使い始めます。

中学3年生、とある人と出会いました。
高校2年生まで付き合うことになる
ゆっくり実況者の方です。
(当時はただの同級生だった)

その人の影響で歌い手を知ります。
はじめて知った歌い手さんは天月さん。

中学三年生から歌い手を知りボカロを
深く知り始めます。

4.活動人生の始まりは電子端末が無い状態から 

高校生になった僕は自分らしさの追求と
活動への道を進んでいきます。

ところで僕の神夜律という名前の由来なんですが
神夜はただ幼なじみの元カノに付けてもらったやつ
(その子も絵とか小説書いてます)
名前の律は旋律の律。
僕がもし男の子に生まれていたら
付けられていた名前らしいです。

"自分だけの旋律を奏でて欲しい"

僕が活動を始めたのは高校1年の夏終わり、
秋頃だったと思います。

何を歌ったかどこで投稿したかはアカウントももう無いし覚えていませんがちょうど4年目になります。

 活動を始めた当初スマホなんて持ってなくて
フリック入力すらままならない状態でした。

じゃあなんで活動者になったのか…

『僕の事を知って欲しい。存在証明が欲しい』

こんなもんですよ。

スマホ・その他電子端末が無かったのにどうやって
活動者になれたのか、 

ここで出てくるのが
今でも関わりのあるレンさんです。
レンさんは高校1年の時のクラスメイト
僕のすぐ横で活動を応援してくれて、

僕が歌を投稿していたのはレンさんの
スマホ端末です。

元々完全にネット環境が無かったのかと言われると
自分のスマホは無かったものの
家族共有用としての端末はあり、
そこで歌い手、ボカロの存在を知っていました。

しかし、さっきにも書いた通り
良いとは言えない家庭環境。
すぐ機嫌が変わる母にスマホ使用禁止を
数ヶ月言われることが常の毎日でした。

そんな中でも活動を続けられたのは
こういう背景があったりしたから。
レンさんにはほんとに頭が上がらない。

ずっと僕のそばで応援し続けてくれてありがとう。


5.自分を〇したあの夏を僕は忘れない。

それから色々あって高校2年、
夏の終わりの事でした…。
当時交際していた人が過剰自傷をして
精神科に緊急入院したこと、
警察沙汰になり、
(相手の親に僕のせいでこんな状態になったんだと言われ、訴えられそうになった)
活動を辞めざるを得なくなったこと
(ネットが悪いと判断された。)
母が知らない人と再婚すること、
(突然だった。)
家族が増えたこと…
(2人目の妹ができると知った)
色んなことが重なり……

僕は自〇…出来ませんでした。

もうどうしてもこの先が不安で苦しくて
もがいたって見て貰えない、
毎日毎日鋭い矢の降り注ぐ日々で
過去も何もかも全部急に襲いかかってきて
(この時初めて自分の出生を知った。
この時まで自分の父親の存在を知らなかった。)

(母に高校を卒業したら家を出たい。という旨の話をしたところ言われたのは『貴方の代わりはいる。だから出ていってもいいよ。』でした。その後産まれる一番下の妹ちゃんです。この時初めて妹の存在を知らされた。)


なんだか、自分の存在が分からなくなって……。


活動という星を取り上げられた当時の僕には、
一欠片の光も残っていませんでした。

見上げた空は真っ暗で……闇に呑まれる恐怖に
僕は今でも1人の夜になると苛まれます。


この頃からご飯が食べられなくなり、眠れない日が連日続き、それでも教室では笑顔で笑って…だんだんと壊れていく自分に当時、僕を含め周りが気付くことはありませんでした。
(42kgあった体重が35まで落ち、今でも40kgに戻せずにいます。また睡眠障害も絶賛継続中でございますw)


ただただ人と関わるのが苦しかった時期で、
今ある地獄から、逃げたかったんだと思います。



そんなある日ふと窓の外を見たら、
凄い夕日が綺麗で……。

あぁ、こんな日に〇ねたらいいな…なんて思って
凄い自然にふっと心にすとんと落ちてきたんです。

数少ない大切な人たちに、遺書を書いて
 大切にしていた歌詞とかボイトレのノートに挟んで

僕がいつも座ってた席の椅子を引っ張ってきて
その上に乗って、
僕の一番好きだった場所の
ドアの隅に紐を掛けて…

そしたらちょうど窓の向かいに
(窓から中庭を挟んだ位置に3年生の教室が見える)
よくお世話になった先輩がいたから
最後に声掛けに行こうと思って……

『ねぇちゃん!いつもありがとうね。あ、部室鍵閉めたからそのまま返してくるよ!』
(ねぇちゃんって呼んでたんですその人を)
『おーどしたん急に。ありがと~』

部室に戻って紐を見て少し記憶に想いを馳せて
首を掛けて椅子から足を引いて…

ぐっと重力を感じました。

あ、痛い…。首、意外と痛いんだな

なんてことを思った。
不思議なことに苦しくはなかった。

幸せだったな 最後にいい話をしたな。

色んな人に迷惑掛けちゃったな



 ……ごめんね、



凄く凄く暖かい感情に包まれてた。
思ったより死ぬのなんて怖くなくて
拍子抜けだなーなんて思った。



ふと、




走ってくる先輩が見えた。


え、なんで??


慌てて椅子に足を掛けて外して紐を回収した。

何食わぬ顔でどうしたのーなんか忘れ物?
なんて言って……。


『あぁ良かった生きてた』




先輩はたしかにこう言った。



バレてたんだ。全部



苦しんでたことも人に言えなかったことも
『助けて』が下手すぎて
自分を傷つけて守ってたことも。

小さな頃からの僕のやり方が
本当は間違いだったなんて

誰も教えてくれなくて…。

いつも、みんなの前では笑顔だった
泣いたら心配するよね

りつくんはそんな子じゃないよね
僕は偉い子だよね

ねぇ、僕は、ぼくはぼく…は???
 
僕はどうしたらよかったんだろう。

ちゃんと生きられなくてごめんなさい。

 僕は先輩の前ではらはら泣いて、、泣いて笑った。

あはは、僕は不運なやつだなーなんて。

そのまま先輩にちょっと来てーって連行されて
 相談係の先生と面談をした。

少し話して暗くなったからと帰った部室に
僕の隠したはずの紐と遺書は見当たらなかった。

次の日放課後保健室に呼び出されて、
なんの用かと思ったら、
児童相談所の人と市のこども課の人と先生がいた。

なんの冗談ですかこれは~なんて、



薄々気付いていた。


案の定自〇未遂の件で

あぁ終わったなこれはと思った

(数年経って聞いた話によると、僕を見た先輩が様子がおかしいと思ってそのまま相談係の先生に連絡をしていたそうです。
そして僕を連行している間に別の先生が
部室内を家宅捜索し、証拠は抑えられていたそう。)


その後はもう…保護者、担任、教頭、校長、児童相談所、相談係の先生、市役所の人、教育委員会等色んな所の大人達が話し合いをし、命に関わるとかなんとかで精神科へ招待状を貰いその場で破り捨て、行かないです。死なないので行きませんとか言い出し……。母と大喧嘩をしたり、また自殺未遂や自傷行為を繰り返したのですが、今はまぁ……落ち着きました。

 本音を言うと、この時〇ねなかったことを、僕は今でも後悔していたり……します。


一時期の活動休止を挟んだ活動人生、
翌年4月頃に復活し、歌い手、配信者を再開。
高校3年生の秋頃、絵師を名乗り始める。

そして……。
やっと活動が落ち着いたのが高校3年の冬、
コツコツ貯めたバイト代で、
スマホを買ってからでした。

その頃には簡単なMIX、絵、歌い手界隈を自己研究していたのでどんどん活動にのめり込んでいきました。


6.そして現在律さんは。

僕は今、保育の大学に進んでいます。
高校卒業する未来すら描けなかった僕ですが、
心理を専攻で学び、
子ども達の未来を守るために
保育者を目指し勉強中です。

僕のように幼少期、
心に傷を負って育つ子を減らしたいと
心理が専攻で取れる保育大学に決めました。


今でもふと思い返すと
苦しかったり、古傷が痛み出すことがあります。 
今でも家庭環境は、
良いと言えるモノではありません。
それでも、また死ぬことは無いだろうなと思います

当時苦しかった時期に僕は未来の自分に宛てて
よく手紙を書いていました。 
明日死ぬかもしれない自分に……。

苦しいよ、寂しいよ、辛いよ、〇にたいよ
『助けて』と。


拝啓
この手紙読んでいるあなたは 
どこで何をしているのだろう。

 今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
誰の言葉を信じ歩けばいいの?

ひとつしかないこの胸が何度もばらばらに割れて
苦しい中で 今を生きている

今を生きている。



昔の僕へ。
君はそのままでいいんだよ。
ありのままでもいい。そう思えるくらいには
未来の僕は幸せです。


少女はただ、齢3歳の頃語った夢を
自分の声で誰かを笑顔にしたいと、
自分を殺し、否定しそれでも色んなものを変えて
自分を愛そうと努力してもがきながら

今日も歌を歌います。

今現在、僕は歌い手とは名乗っていないけれど、
また歌い手を名乗れるように
もっともっと頑張りたい。

僕はまだ、僕自身を好きとは言いきれない。
それでも僕の声が、絵が、笑顔が、
好きだという人がいるなら、

今日も崖っぷちの命を掛けて
活動をしていきたい。

 一生分のありがとうを……。


 これは、苦しみの中光を信じて生まれた1人の活動者の物語です。
嘘であってほしかった、悪夢のような長い長い短い人生です。



ここまで読んでくれた方いたらありがとうございます。凄い長い長い自分語りになりましたが、
今を生きる僕からみんなへ、
界隈の情報だったり、経験だったりを
色々発信していこうと思うので
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