予測不能にもほどがある 32 イタリア編 (9 昭和的実録 海外ひとり旅日記
日記_034 二つの言い訳
23-(2 / july 1978 些細な屈辱
カオスのような街々から、突然整然としたBAUHAUSな街に放り出されたようだ。
そのFrankfurtで、この旅初めて道を間違えることになった。
まずは”Central stationに行きたい、尚且つより多様な表情を持つオススメの街があれば教えて欲しい”のつもりで言った”Main”に込めた意味が、英語を理解しないあるいは俺の英語が曖昧すぎたのか間違っていたのか、最初の人から二人目三人・・と伝達ゲームのように繋がった英語の”Main”の意の果ては、”Mainz”に置き換えられてしまったようだった。
それは行きたかった中央駅・旧市街・繁華街・面白い街・・・全てに当て嵌らない、しかもFrankfurtとは正反対の方向に位置した程々聞いたことはある大きな街”Mainz”であった。
しばらくの間Frankfurtのつもりで歩いていたことは、既に4ヶ月も旅をしてきて”旅慣れた奴”と自認し始めようとした矢先の青天の霹靂であった。
Frankfurtに辿り着けば既に夜、Youth H.に空きがあり、スムーズに宿泊できたのがせめてもの救いであった。
24 / 25/ july Bauhausな街
Frankfurtは高層ビルもポツンポツンとある程度だが、見方を変えれば日本より遥かに近代的に見えるし、実際あくせくしない落ち着きのある時間の流れは大人を感じさせ、よりドイツの印象を再認識させられる。
ゴシックから古い建物までも残しながら、Barのレジやら市電のシステムは自動化され、(チケットはプラットフォームで行き先まで自己申告で買い、市電の中でも検札・改札などは無い。キセルなども一切無いと誇らしげに言っていた)かなり高度に生活倫理は反映しているようで、羨ましいほどに近未来を感じさせる。
今まで体感してきた他国の人々との人あたりとは雲泥の差で相違しており、無表情に寡黙にキチンと信号を待つ姿は、日本以上であろう。
物価は(日本と比べ)かなりの点で高い。
Youthで会ったおきゃんな一人旅の女の子と”Goethe-Haus”(黒魔術に興味のある特異の女性ではなかったよう)に追いては行ったものの気持ちは上がらず、通りかかった大聖堂から聴こえるパイプオルガンに誘われるまま、特段でもなさそうなJesusの磔への道行のレリーフをぼんやりと見るでもなく眺めていたら、涙が滲んできた。
(メフィストフェレス(「Faust」に登場する悪魔)のお出ましかそれともこれこそが宗教への誘いなのか)
所在無く歩けば、新市街か、ポルノショップがチラリホラリ、類は友を呼ぶか、ノッテ試る。
店内は普通の本屋さん風、(Frankfurt流を魅(見)せてくれ!)。
ドイツでさえもHardcoreは遠慮がちかよ!
それでも1冊購入したら、若い店員がうつ向きがちに奥を示唆した。
言われる儘にカーテンを寄せると30席ほどの映写室になっていた。客は初老の男と若者風2人だけ。微妙な距離を取って、深々と席に沈む。
内容は推して知るべし、猛烈なHardcore。
しかし残念ながら、性の切り売り|外貨稼ぎばかりが目に余り、近代ヨーロッパが表現の突破口として来た宗教|人種|戦争|産業の狭間を掻い潜ろうとするヒトの息遣い、それをムーブメントとするようなサブカルチャー表現の欠片も見当たらなかった。
期待と探求という好奇心がシュンと音を立てて弾け散り、代わりに暗い孤独が顔を覗かせ始めたようにも思えた。
逡巡している・・・、北に進路をとるべきか、南なのか・・・。
コラム_71 二つの言い訳
”Main”と”Mainz”、まあ俺の外国語への無知が仕出かしたこと。
でも先進国と言われる国(間違いなんて起こりようがないという先入観)で起きたことにショックは隠せない。
(旅の気の緩みか)
”Modernism”は日本も抱える、デザインに限らない社会形成上の課題でもあるはずだ。
社会の進歩に埋没しがちな”個”の在りようをどう納得していくのか、それを試行錯誤した歴史としてユーゲント・シュティールJugendstil(「青春様式」という訳はちょっと間抜け)は分かり易い。
19世紀末〜20世紀初頭、伝統的な価値観や文化に反発するMovementはJugendstil、Art Nouveau、Arts & Crafts、各国分離派などとなってヨーロッパ全土の風となっている。
ここ独のJugendstilは、工業製品に美的価値を与えるという視点をより鮮明にしドイツ機能主義に至り、その教育機関としてBAUHAUSが設立された。
確かにFrankfurtの新市街景観は、明らかにBAUHAUS的に見える。
そうしてこの街には社会行動規範にもその蔭は反映しているようで、頼もしくもあるようだ。
しかし多少大事に捉え過ぎと言われるかも知れないが、機能主義のストイック過ぎる希求が、個の” 在りよう ”を際立たせても、その本来の多様な” 生きさま ”にブレーキをかけたり変容させたりとしたら、これらのMovementはどう評価されることになるのだろう。
自分にはやっぱり”ウィーン分離派”のヒトの色艶を残しているあたりの表現の方が、居心地良く感じるのだが・・・。
こんなこと、南に進路を取った言い訳になるのだろうか。
26/ july 嗚呼 Milano!
夜行列車は南に向かっていた。
600km、10時間で10,000円位か。
列車の中でチケットを買うのは割高で、だからと言って国境を2つも超えるチケットは存在しないのだから、痛し痒し。
しかし列車のコンパートメント一つを独り占めできたのだから、このラッキーを優雅に楽しもう。
小雨混じりに関わらず、朝の深呼吸をしたくなる程の弛緩した空気の中、列車はMilanoに滑り込んでいた。
何故なのか、古巣に還ったような安堵感を覚える。
列車に乗り込んだ時の落胆するような気分は既に消滅していた。
(全くヒトのココロ持ちというのは勝手なもの)
地下鉄から地上に出ると既に雨は上がっていて、見上げる青空の中にDuomoが覆いかぶさって来た。
(嗚呼、やっぱりMilanoなのだ)
何かあったのか、軍服にライフルを捧げた数人の男たちが周辺を所在無げに彷徨いてはいるが、(パスポートは持っている)と下腹のポシェットを確認すれば、Duomo正面のアプローチ階段の空き場を見つけドッカリと腰を下ろせば、やっぱり来た感に、全身の力も安堵でゆっくりと滑り抜けていくのだ。