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予測不能にもほどがある 37 イタリア編 (14 昭和的実録 海外ひとり旅日記

      



日記_039 引き寄せ(られ)ている

 

   9(2 / 10 / 11 / Aug  1978  田園のアッシジ

9 /曇り      10 /晴れ     11 /晴れ
Arezzo〜(Perugia)〜Assisi train 2.5h 2100L
Basilica di San Francesco in Arezzo
Basilica Papale e Sacro Convento di San Francesco in Assisi

Basilica di Santa Chiara

pension 2000L(Arezzo)
camping sight 2000L×2(Assisi)


塩野七生さんお薦めのPiero della Francescaとご対面のためArezzoのSan Francesco Churchに途中下車。

(本来この辺りEmilia-Romagna地方Cesare Borgiaの中心舞台で、じっくり探訪したいのだが、本当にキリがなさそうなのは事実)

Francescaの作は既にUfiziで『ウルビーノ公夫妻の肖像』で鑑賞済み、あの鍵ッ鼻は忘れ難い。

しかし教会は修復中らしく、概ねのフレスコは見れず終い、それでも落ち着いた甘いカラーの匂い立つようなFrancescaのフレスコは多少体験できたのかな。

実際にはCimabueの木製の十字架もステンドグラス背景の祭壇に浮いているはずだったが、(こちらも修復中とのこと)もぬけの殻であった。

(Tourist Infoの職員が、催促した訳ではないのに申し訳なさそうにCimabueの写真ポスターを差し出されたので、有り難く戴くことにした)

Francescaのポスターは1000LIRE也で売られていた。



列車ホームを間違え、次の列車2.5h待ちして、Assisi着。

(お蔭で、2泊(camping sight内の快適な簡易ロッジ)する羽目に)

駅からのまっすぐな一本道の遥か先の小高い丘に這いつくばるように、Assisiの街が霞んで浮かんで、見えている。

聞けば5km位とか、(歩くのに驚く距離ではない)
それならと真夏の炎天下を、既に歩き出していた。

そう云えばしばらく都会の道程ばかりで、久し振りの田園風景、左にオリーブ畑右に陸稲畑が続いているのを楽しんではいるとは云え、この道脇に大きな樹々も見当たらず、容赦ない太陽の照りつけるバックパックを背負っての道行も(数日一拠点に宿をとっているのなら、街歩きには水筒の入った小さなサブバックしか携帯しないもの)また久方ぶり、
爽やかに田園を大きく深呼吸しながらのアプローチとはいかず、全くの計算違いとなった。

『Assisi_ Mystical, Evocative, Enchanting.』Ufficio del Turismo 1978 パンフレットより抜粋

短くなリ始めた呼吸ピッチに拍車をかけるように、平坦なまっすぐな道は一気につま先上がりとなりながら、九十九折つづらおに幾重にも繰り返す道に変われば、目指す教会群の街は目前に見え始めども、劇的に近づく様子もない。

(何か遠回りしているよう・・・5kmなんて、とっくに過ぎてるぞぉ〜)

それでも夕日の傾く前にはBasilica di San Francescoに辿り着き、一息つく間の代わりは”このわたしたちにお任せ”というが如く、穏やかにそして癒すように迎えてくれるのは、圧倒的なパステルカラーのフレスコ画たちだった。

外階段上が教会、下がBasilica各入り口 Ufficio del Turismo 1978 パンフレットより抜粋


ゴシックな高いボールト天井の両側壁にタテ4mはあろうかというGiottoのフレスコ(ちょっとゴシック様式には不似合いなパステルで優しい印象)が何と二列横隊となって、(San Francescoの)寓話を物語っているのは、壮観。

小鳥にお説教なんて、イイよね)

このBasilicaは丘の斜面に建てられたためか、一旦外に出て細い脇階段を降りねばならず、再び下層のバラ窓(上層のバラ窓より豪華)の入り口を潜れば、今度はロマネスクのボールト天井に様変わりしていく。
両翼にも、建物が十字を切るように同様のボールト・円天井が入れ子状態であるため、意匠構造上の稜線は互いに交錯し合い、ぶつかり合い、俺の頭の中の空間把握を瞬時に混乱させていく。

円天蓋部でも12m、Basilica天高は15m位はある
向かって左側中段部『Deposition of Christ from the Cross十字架からの降架』

Ufficio del Turismo 1978 パンフレットより抜粋


そんな矩形でもない三次元空間を画面にして、Giotto、Cimabue、そしてSimone Martini(Firenzeで俺のお気に入りとなった)、Pietro Lorenzettiのフレスコが切れ目無くパッチワークされている。


(スゴイ!)としか形容できないこの空間を持て余し、既に思考停止の状態にありながら、それでも俺の視線は引き寄せ、呼び覚ます、何かを捉えていた。


『磔刑』の脇に、既に青白く血色の無いJesusの顔に、同じく血の気を失せながらも頬に幽かな紅をたたえ、(異様な逆筋から)摺り寄せる顔は明らかにMariaの顔・・・

しかし見上げるほどの高さの画面の一部分でしか無く、しかも仄暗いBasilicaのボールト翼内である・・・

Lorenzetti?
UfiziでのSimoneとの出会いが俺にもたらした”ほてり”と似ている!)

(再び! っか !)

『Deposition of Christ from the Cross十字架からの降架』

(再びのMaria・・・哀惜・・悲嘆・・痛哭・・)


 コラム_85 再びのMaria

   Basilica di San Francesco in Assisi



Assisiは紀元前よりローマ帝国の自治都市としての地位をもった城壁に囲まれた街である。
Assisiに生まれたFrancescoの功績を讃え、13世紀前後にかけて建造されたBasilica di San Francesco含め、以降巡礼者の多く訪れる地となっている。(2000年 世界文化遺産)

この旅が Istanbulのビザンツ文化から始まり、Greek、Athos、Yugo、そしてItaria(Firenze 『Ufizi』)、ここAssisiと流れていくに従って、俺の宗教美術への興味に傾斜していく不思議に、気付き始めている。

特段 宗教・宗教絵画に興味・造詣があるわけでもなく、むしろそれらを凌駕していくルネッサンス絵画のその精緻な表現手法の発見に惹かれる中心はあったと思われる。
Renaissance = 文芸復興 = 自我の発見と捉えていた節がある)

ここで出逢った夥しい数のフレスコは、ビザンチン美術の最後であると同時に、ルネサンス美術の先駆けとされているのだろう。

FirenzeではCimabueの後継であるSimone Martini前記事「受胎告知」で既出)、Giottoの影響を多大に受けたPietro Lorenzettiは、共にSienna出身の同世代人であり、その後14世紀にFirenzeと並びSiennaがルネサンス美術の二大聖地となる契機となっていく。

このBasilicaプロジェクトで出逢った二組みの師弟たちが、ビザンツ文化からルネッサンス文化への橋渡しをしながら時代・自我を越えていく。

因縁が引き寄せられている・・・

そして窮屈でなければならない宗教画の中の宿命のMariaでさえも、SimoneとLorenzettiの仕掛ける二つの(Mariaの)表情によってRenaissance(自我の発見)を全うしていく(、と俺が見ることになる)のに何の不自然も無いだろう。

十重二十重とえふたえ引き寄せ(られ)ている・・・



(それにしても、俺って

結構 ” Maria ” に嵌まり過ぎないか?

それってヒョッとして 愛 ? マザコン?)


翌日は街の反対側まで散歩がてら行ってみる。

とにかくAssisiは 丘の傾斜の上にある街のため、石畳の道の鋭角に曲がる所で、家並みの擁壁が坂に沿って石垣の手摺壁となり、平坦な道となれば手摺の高さもスーと広場に飲み込まれ、そしてヒトの視線は俄かに拡がり、景観は様変わりし豊かさを増す。

(来る時は” 青色吐息 ”だったのに)

Basilica di Santa Chiaraの前の広場で、フェスタ祭りのOperaが始まっていた。
野外の丘から聞き降ろす肉声楽器は麓に向かって反響していく、教会のサービス夏の黄昏を告げる)なのだろう、塩野さんの言っていた” 僧侶はプロ ”というのも、こんなことの積み重ねを指して言っていたんだろう、と頷ける。


 コラム_86  Assisi| Itary Map_14


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