昭和的実録 海外ひとり旅日記 予測不能にも程がある トルコ編 07
日記_009 観光モード突入
10/apr 1978
カラー36枚撮10ロール持って来たが20日間で既に使い切ってしまった。
写真屋さんらしき所を覗いてみたら、カラー36枚撮250TL、(とても無理)。
お陰でIznikの城壁はとても美しかったが、取り損ねた。
IznikからBursaまで1時間20分程の道程。
昨日までの天気とはうってかわって快晴で、蒸し暑いくらいだ。やっと雨期らしき時期は過ぎたのか。心成しか身も心も軽く前向きな気分になる。(単純!)(観光モード突入か?)
都市へ連絡するバスは大型で、田園風景の続く直線道路をバンバン進む、途中砂埃の立つ村に入っても、そのままクラクションを鳴らし続けて90kmのスピードで突き抜けていく。
(怖っ、大丈夫かぁ)
ウルダーの山並みに抱かれたBursaの街が見えて来た。
オスマン帝国最初の首都で、街の左右を激流がすごい音を立てて流れ落ちる程の急斜面の街である。
遠く白く光るウルダーの雪解け水なのだろう、そんな清廉さを蓄えた樹々も相まって、ジャーミィのミナレットを一段と美しくしているようだ。
(騎馬民族の街なんだな。自然や文化にも動じない、勝手に作り上がってしまうゴーイングマイウェイな感覚?よく分からんけど、肌身にすごい!)
イェシル ジャーミィのタイルはIznikタイルのターコワーズブルー色系とは少し色相がミドリに寄ったエメラルドグリーン色系だ。
(因みにYeşilは緑の意)この街を目の当たりにすると確かに海の水の色ではなく、樹木から発した色に違いないと確信してしまう。
コラム_12 旅の始めの引き合わせ
海育ちの自分は、子供の頃良くも悪くも親から「海から流れてきた」(桃太郎じゃあるまいし・・)と言われ続け、海に妙な思い入れを抱くようになっていた。
地中海の代名詞と言えば(エメラルドグリーン|ターコワーズグリーン)かトルコの名の通りの(ターコワーズブルー)の色名が使われる。
共に宝石の名を冠し、高貴で憧れを感じるモノの例えに良く使われるが、実は自然から読み取る色感を常とした日本人にとっては、馴染みが薄い色であると思われる。
(実際、大日本インキ化学発行の「日本の伝統色」の中でも一般に言うブルー|青の色数は非常に少ない。浅葱色以外は殆どが藍色系で、スカッとしたブルーなんて、日常縁がなかったのか)
それ故に自分にとっては、これらの色名が(別に好きと言う感覚ではない)よりエキゾティックに感じ、引き寄せられるのだろうか。
色見本で言えばこの辺りか。
(飽く迄も自分のイメージで、本来の規定色とは相違するかも知れない)
(トルコ石の青味が強い〜緑味が強い青緑色)と微妙な色相差ではあるが、きっとIznikでは湖あるいは海の色、Bursaではウルダーの山並すなわち樹々の色であったのだろうか。
共に同じIznik産のタイルが創り出した色であった。
(余談ですが、ルネサンス以前はキリスト教の縛りのため、庶民の色は青色、緑色、黄褐色に限られていたと聞いたことがある)
たまたまではあろうが、ここIznikとBursaを旅の始めに引き合わせている事実が、自分の小さい時からの記憶の魔性のようなモノに引き寄せられているのではないかと感じられて、不思議な思いにさせられている。
11/apr
çanakkaleに行き先を決めた。
イスタンを離れ3日(今頃領事館も容疑者(?)がイスタンに不在なことに気付き始めたか)、多少領事館に気を使いながらも、イスタンから付かず離れずの行き先決断となった。
道程赤茶けた丘陵が続き、その処々の草木を食む羊の群れが唯一の車窓の楽しみとなった。
というのもバス会社の職員がçanakkaleまで3時間と言っていたが、トンデモナイ5時間半もかかったのだ。
日没7:40、黄昏は突然にやってくる。しかし何処であっても夕暮れというものは美しく、物悲しい。その美しさに免じ、腹の立つことも忘れよう。
ともすれ暗い夜道でのホテル探しは気が急くもの、(こういう時こそ魔の手は近寄ってくるもの)英語を話す中々のサングラスオヤジが同行がてらホテルを紹介してくれた。しかしホテルの主には「2人部屋しかない」と気の無さそうな応対の始末、サングラスオヤジも別にホテルに昵懇な風もない。
(ははぁ−ん、今度はこの手か)胡散臭そうだし、やめとこ。
(少しは自衛本能もつき始めたか、何事も学習、学習)
12/apr
今日は楽しい1日を過ごすことができた、S領事への電話以外は。
「パスポートなしで職質(職務質問)でも受けたら、大変なことになるぞ」
全く仰る通り、一瞬怯んで言葉に詰まったが「定期的に連絡しま〜す」であっさりと電話を切った。(イイのかぁ)
çanakkaleからtroyaへのドルムシュ内で逢ったアメリカの女性旅行者2人とtroyaの土産物屋店員の若者と一緒に太陽を浴びながらの談笑は久し振りの息抜きとなった。
(ひとり旅行中は機能的な会話ばかりで、雑談的な会話は余りしないもの)
真新しい(?)巨大な「トロイの木馬」の前の土産物屋の若者が「最後のトロージャンだ。」と豪語する、それをまるで仮面ライダーのよう、と訳のない連想に駆り立てられるのもこの太陽の所為か、とカフカ張りに夢想している自分に、また酔っている。
(実はトロイの遺跡はここから更に5km程歩かなければならないのだ。だからその前のテンション繋ぎの予行練習なのだ)
結局トロイの遺跡は、あたかも団地造成のような赤茶けた台地の所々レンガ積みの遺構が掘り起こされた程度のありさまで、自分には何の脈絡も理解できない唖然としたものであった。
予想外のあっけなさに特段次の目的地も頭にあるわけでもないまま、オトビュスに乗り込み南下を急ぐことにした。
というより行き先を思案している矢先に話しかけてきたlycéeの先生に連れられてAyvacikという街に立ち寄ることになったのだ。
Ayvacik lycéeは30人程の学生が寄宿生活をしている小さな学校(22〜28才位までの学生で殆ど同じ程度の勉強をしていると紹介されたが?どういう趣旨の学校?)で、その夜遅くまで楽しい時間を過ごすことができた。
話題はと言うとTroyaでもそうだったように、政治は若者たちの重要要素のようだ。ギリシャとトルコの仲の悪さやギリシャからのTV電波の方が良好故にギリシャの番組をよく見るなど・・。
ある学生の口からはB.B(ブリジット・バルドー)、C.C(クラウディア・カルディナーレ)、J.Pベルモンド(ジャンポール・ベルモンド)の名が出たのには驚かされた。
13/apr
お礼と別れを告げるため朝lycéeに顔を出し、昨晩聞いたAssosへ向かう。
ドルムシュに乗って山道を抜けると、突然に小高い山にへばりついた実に美しい村に出くわす。
切り立った岩山の頂にはアテナの神殿だろう、そしてビザンチン時代の教会を利用したと思われるモスクの塔も見える。
急斜面を駆け下りるように紀元前の街並み跡が石群となって海に落ち込んでいる、ここがAssos。
崩れた石群を照りあげる光とそれを和らげる風の中にいると本当に時間
が失われて行く。
2時間も歩き回っていたのか、お陰でこの村を出る最後のドルムシュを逃し、Ayvacikにはタクシーで戻るハメになってしまった。(大出費、猛省々)
その腹癒せという訳でもなかったのだが、街道沿いでタクシーを降ろされ偶々手を挙げたら呆気なくAkçayまでの初めてのヒッチハイクがヒットしたのだ。(ラッキーっ!)
地中海に沿ったルートとは言え、山並みを走ることが多かったから、Akçayに入るや待望の海が目に飛び込んで来た時の開放感(まだイスタンを引き摺っている?)は格別だった。
大きく湾曲した海岸線にヤシの木が高級避暑地を思わせる。
(ここ、リビエラじゃん、観たことないけど)
実際優雅に麦わら帽を被った老人(ヘミングウェイか)に声をかけられ、砂浜沿いの堤防に腰をかけるよう促された。
入江の50m程沖合の海が突然ゴーッと盛り上がり、噴水となり吹き上げた。何十キロと離れた山間からの水が間欠泉となって海に30mもの高さをもって噴き出しているのだと言う。
既に時は夕暮れ、そこで「Hirohito」天皇の名を聞いたのにもちょっと驚いた。
(そう第二次大戦時日本はトルコと同盟を結んでいるのだ)
コラム_13
日本人は好意的に受け入れられる
AkçayでのHirohito発言に限らず、トルコ人の日本人に対する印象はとてもイイ。
でもその最大の要因はやっぱり「カンフー」?
街で「ジャポンジャ、カンフー!」と子供たちに列になって追い回されるのは珍しいことではない。
(「カンフーは日本のものじゃない」なんて野暮なことは言ってはいけない)
人にモノを訊いても必ず返答してくれるし(聞こえない振りや無視は絶対されない。但しそれが正しい情報とは限らない。言葉は通じなくとも頼まれたらNoとは言えない国民性か)、あるいは話しかけられることもあったり(やはり香港映画のカンフーの気さくさなのだろう、ジャッキー・チェンは凄いのだ)で、(特段予定も目的も持たない?)旅行者にとっての利便や好奇心を計り知れなく満たしてくれることになる。
珍しいからと覗き込んでいれば必ず引き入れてくれるし、例えば結婚式やらの行事に限らず、初対面であるにも関わらず、トルコ人団体ツアのバスに同乗させてくれたり、自宅に泊めてくれたことも一度や二度では無かった(窮地の時には懇願を顔に出したことはあったかもしれない、ゴメン)。
こういう対応ができるのも彼らの人間性だけではなく、宗教観・歴史観の背景などが連綿と裏付けているのかもしれない。
しかしそれを鵜呑みにしていると足元を救われたりもするが、恐らくそれらは彼らのエチケット・ビジネス(?)と心得て、多少の損害があったとしても上目線にはなるけれど、楽しむことが先決なのかも。