見出し画像

中学受験 サピックス5年生 応仁の乱(室町幕府) 確認問題付き

今回は、サピックス5年生の歴史第7回になります。
写真は枯山水です。


応仁の乱と足利義政


鎌倉時代に設けられた守護は一国に一つでしたが、室町時代になってくると次第に大きくなり複数の国の守護を兼ねるようになりました。そして軍事・警察の仕事だけでなく経済的にも大きな力を持って守護大名と呼ばれるようになりました。足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏と外様勢力の山名氏・大内氏・赤松氏などの勢力が幕府で大きな勢力を持っていました。
細川勝元と山名宗全の対立と、八代将軍足利義政の跡継ぎ争いとがからんで1467年に応仁の乱が起こりました。11年間も続き戦場となった京都は大きな被害をうけました。これから約100年間は、身分の下の者が上の者をたおす下剋上の風潮がすすみ戦国の世の中になりました。
八代目の足利義政は14才で将軍につきました。文化に力を注ぐようになった彼は応仁の乱の終わった後に京都の東山に二階建ての慈照寺銀閣を建てました。一階は障子に囲まれた和室のような作りで二階は仏間になっています。よく教科書などで見る書院造の写真は隣に立っている東求堂です。付け書院や違い棚が設けられ床にはたたみがしきつめられ、ふすまや、明かり取りのために障子が用いられています。書院造は今にも続くもので和風建築の元になりました。

《室町時代の社会の変化》 

都を中心にした地域の畿内では有力な名主を中心にして「惣(そう)」という組織を作り自治を行うようになった村もでてきました。彼らは寄合を開き祭りや農業用水の管理、燃料や肥料・飼料を得る森林の利用などについて話し合い、村人たちが守る「おきて」を作りました。自治を行うこのような村を惣村とよびます。こうして力をつけ荘園領主や守護に対抗していきました。
1428年の正長元年に近江坂本の馬借や周辺の農民が高利貸の土倉や酒屋におしかけ借金の証文を破り捨てました。これを正長の土一揆といい、以後農民が一致団結して徳政を要求する土一揆が畿内を中心に広がっていきました。近江とは現在の滋賀県のことです。
応仁の乱後の1485年に山城の国の土着の侍(=地侍=国人)と農民が守護大名の畠山氏を追いだし八年間自治を行いました、これを山城の国一揆といいます。山城とは今の京都府南部のことです。
また北陸・近畿・東海地方では地侍と農民が一向宗の信仰で固く結びついて守護大名などに対抗しました。これを一向一揆と言い、特に加賀の一向一揆は1488年から100年間自治を行いました。加賀とは今の石川県のことです。一向宗の中心は大阪の石山本願寺でしたが、この寺は周囲を堀で囲んで寺内町を形成していました。一向宗は鎌倉時代に法然の弟子だった親鸞が始めた浄土真宗のことです。

〈室町時代の農業、商業、生活〉 

鎌倉時代になって農業の技術も進み西日本では表作りで稲、裏作りで麦の二毛作が広まりました。また農地を耕すのに動物の牛や馬を使ったり肥料に草木の灰を使ったりして生産の向上にはげみました。

室町時代になると稲の品種改良や水田に水を入れるための水車が作られました。肥料では牛馬の小屋の敷きわらで堆肥をつくりました。鎌倉時代に始まった二毛作も東日本まで広がり裏作に麦や大豆が作られるようになりました。これらを原料としてうどん、納豆や豆腐など、またコンニャクが作られ食されるようになりました。鎌倉時代に栄西が持ち帰った茶の栽培が広まりました。武士や貴族の間では茶の湯を楽しむようになり、その後町や村にも広がっていきました。
 室町時代には鉄製の鍬やすきなどを作る鍛冶屋、紙や織物などを作る職人もあらわれました。これらの品は毎月決められた日に開かれる定期市で売買されました。その取引には中国からの宋銭や明銭などの銅銭が使われるようにもなりました。畿内では土倉と呼ばれた質屋だけでなく酒屋が高利貸を営むようになり農民も利用するようになりました。瀬戸内や日本海の水運も発達しました。また陸上輸送をになう馬借や車借も活動しました。織物、陶器、油、紙、酒などが各地で作られるようになると、これらの商工業者たちは同業者同士で座という団体を作り地域で営業を独占したりしました。
京都では応仁の乱で途絶えていた祇園祭を町衆と呼ばれる人々が復活させました。また中国の明や琉球との貿易で栄えた大阪の堺は、会合衆とよばれる有力者たちが自治を行う自治都市して海外にも紹介されました。こうして社会が発展していくと、寺社の前では門前町、貿易を行う港町などが栄えるようになりました。

〈室町時代の文化〉 

田植えのときに豊作を祈り踊った田楽や祭りのときに演じたこっけいな猿楽は(古くから行われていましたが)、この時代になって能や狂言に発展しました。これは観阿弥・世阿弥によって完成されました。
室町時代も後期になると足利義政が東山に建てた慈照寺銀閣のような簡素な建築様式が好まれるようになりました。書院造が広まりだすと床の間には生け花がかざられ、ふすまや掛け軸には墨の濃淡で描かれた水墨画がえがかれるようになりました。その庭は石や砂を用いて自然を表現する枯山水という形式のものが作られました。
今も子供のときに読まれている「一寸法師」や「浦島太郎」などの「御伽草子」と呼ばれる読み物も庶民の間に読まれるようになりました。学問も盛んになり上杉憲実が足利学校を復興し全国から学生が集まりました。この学校は「坂東の大学」としてヨーロッパにも紹介されました。1450年代に水墨画を描く僧の雪舟が山口の守護大名の大内氏の保護を受け、後にここから明に渡っています。

確認問題です。


いいなと思ったら応援しよう!

中学受験・如意先生
ご支援いただきありがとうございます。過去問題集などの購入に充てさせていただきます。