大正時代 大正デモクラシー
明治初期に「殖産興業」のスローガン唱え、政府は様々な官営工場を各地に建設しました。その後明治末期から大正期にかけて産業のすそ野が広くなり、東京や大阪に多くの工場がたてられました。都市で産業が発展すると人口の集中が顕著になり、明治後半に東京府は300万人、大阪府も200万人を超えました。東京は大正期の十五年の間に約150万人の増加がみられました。(国勢調査を行っていた)このような発展に連れて様々な問題が起きました。
都市部に産業と人口が集中することで生活が大きく変わり、それに伴って政治、労働、貧困、差別の問題などが露わになってきました。こうした問題に関心がうまれた国民が増加して民本主義思想や社会運動がおきてきました。大正時代になってもまだ薩長中心の(藩閥)政治が行われ、明治の元勲と言われた桂太郎、山県有朋、西園寺公望らが権力を握っていました。
大正時代の護憲運動とは憲法を守れということではなくて、政権をたらい回しにする(藩閥)政府に対して(憲法)に基づいた立憲政治を行えという運動でした。
1913年に起きた第一次護憲運動は、 内閣不信任案を提出されて議会を停止した桂太郎内閣を「閥族打破、憲政擁護」をスローガンに倒閣した運動です。中心となった政治家は憲政の神様と言われた(尾崎行雄)や犬養毅らでした。
1916年に政治学の東大教授だった(吉野作造)は雑誌に「政党政治」と「普通選挙」の実現を説く「民本主義」を唱えました。「民本主義」という言葉は英語の「デモクラシー」の訳語です。(民主と天皇の主権は明治憲法下では相いれません)
(米騒動)で寺内内閣の後に組閣したのが、平民宰相といわれた(原敬)でした。この内閣は陸・海軍・外務の三人以外は(立憲政友会)の党員を中心とした 我国最初の本格的な(政党内閣)でした。また選挙権の制限であった直接国税を(3)円以上に下げました。(我が国最初の政党内閣は、大隈重信と板垣退助が組んだ「隈板内閣」でした。「本格的」の文字をいれることが必要です)
大正デモクラシー;大正期に盛り上がった自由主義、民主主義的風潮.
護憲運動(憲政擁護運動);憲法に基づいた立憲政治を行えという主張をした運動。
第一次護憲運動(1912);政権をたらい回しにする桂太郎内閣などの藩閥政治に対して、尾崎行雄、犬養毅らが中心となって桂内閣を打倒した。スローガンは「閥族打破・憲政擁護」
尾崎行雄;「憲政の神様」、第一回総選挙から衆議院議員(立憲改進党)となり太平洋戦争後も議員で活躍。第1次護憲運動と普通選挙運動に活躍
第二次護憲運動(1924);政党内閣制を無視した清浦内閣打倒して、加藤高明内閣成立.→「憲政の常道」=憲法に基づいた政治を行うのは原則である
○1916年、吉野作造が「民本主義」を唱える.「政党内閣制」と「普通選挙」の実現を説く.
★政党内閣制の実現;国会で多数を占める政党が内閣を作る.立憲政友会の原敬内閣が、「我が国最初の本格的政党内閣」
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五・一五事件の犬養内閣で崩壊.
★普通選挙の実現;原内閣の時、衆議院議員選挙法改正=直接国税3円以上を納める25歳以上の男子.
1925年;加藤高明内閣の時、普通選挙を実現.選挙人口は4倍になった.ただし「治安維持法」も成立.