看護師は報われない仕事なのか?
情報発信をしているとDMをちょくちょく頂く。基本的に毎日、多い時で数十件届くこともある。
できるだけ全ての内容に目を通し、そして可能な限り真摯に返信をするようにしている。
DMの内容は、疾患の理解についてだったり、病棟での悩み事、進路のこと、人生についてなど、様々である。僕自身とても勉強になるし世の中にはあらゆる悩みが存在するのだなと思わされる。
また、こうしたインターネットの世界だけではなく臨床においても教育的立場から看護師から話を聞く機会は多い。消耗し、疲れている看護師は非常に多い。
僕は話を聞いたり、自分で考えたことで引っ掛かることに対しては放置せず、できるだけ考えを巡らせるようにしている。具体的には「なぜ」という問いを自分自身に向けて繰り返す。
今回は看護師の仕事は非常に消耗しやすい仕事なのではないか?という引っ掛かりを感じたので、そこを考えていきたい。
消耗しやすい看護師
アイヒマン実験というものをご存知だろうか。ミルグラム実験など呼び方はいくつかあるようだが、この実験の内容は、権力者から命令を受けた被験者がどれだけ他人に危害を加えることができるのかという実験である。
要するに命令されて、誰かに危害を加えることができる人間がどのくらいいるのか?ということである。この結果は驚くことに65%にのぼる。つまり、半数以上の人間が、誰かの命令という口実があれば、他人に危害を加えることができるということである。
僕は新人看護師の頃に同じような経験をした。
初めて患者に胃管から栄養剤を流すことになった時、急に怖くなったのだ。
「もしかしたらこの患者さんは僕が入れた栄養剤が肺に入って死んでしまうかもしれない」
と思ったのだ。それでも先輩看護師は「大丈夫だから」「ちゃんと確認してるから」と言って、僕に実施をさせた。
結果、何も起こらなかったがとてつもなく心が消耗したのを覚えている。
同じようなことで、患者への吸引処置も最初はとても怖かった。
吸引は看護師が患者に対して行う処置の中で最も大きな苦痛を与える処置である。しかしそれを看護師は当然のように行う。
勿論、適切なアセスメントのもと実施する。吸引をしなければ窒息する場面も多いし、結局は看護師が行わなければいけないのだが、これが本当に怖かった。
毎回「ごめんなさい」という気持ちと「このまま患者さんが死んでしまったらどうしよう」と考えながら吸引を行っていた。だが次第に
「しなくてはいけないからする」
という思考に変わっていった。麻痺していったのだ。
こうした経験を経ながら看護師は成長していくが、僕が思ったことと事実から考えるに、看護師は
命令や何らかの必要性に迫られて人に直接手を加える仕事
のように思う。
これは構造としてもう仕方がないのだ。
医師の指示⇨看護師⇨患者
という構造。勿論そういう仕事だとわかって仕事をしているが、あまりにも看護師の心の負担が大きすぎるのではないか。
看護師が間違えた時、責任をとるのは上司だったり、医師だったりする。これは本当に消耗しやすいシステムだなと思う。
どういうことかというと、自分の意思で行った行為ではないのに、他人に責任を取らせるというシステムだから。しかもこの責任の所在が同じ「人間」であるということ、しかもそこに明らかな上下関係、主従関係があるように見える。そに違和感を感じる。ちょっとわかりにくいな。
例えば、医師の指示をみて看護師が注射を準備するが、準備する注射を間違えて投与してしまったとする。この時悪いのは誰か?医師か?看護師か?それとも現場責任者か?これは誰の責任でもない(全員の責任)というのが正解である。しかし、現実は否応なしに看護師の責任になりがちである。なぜか、それはシンプルに「ミス」というもののダメージが大きいく、それによる目には見えない立場の形成が起きるからだ。
間違った本人はとても落ち込む。「ミスをしてしまった」とかそんな段じゃない。
「もしこの注射が違う注射だったら。。。」
「間違いで人を殺してしまうところだった」
「俺は看護師向いてない」
冗談ではなく本当にこれくらい考え込んで、精神的にダメージを受けてしまうのだ。
こうなるとどうなるかというとメンタル的にとても弱い立場になる。ちょっとしたことでもすぐに「俺が悪い…」という考えになる。
そうなるといつもは対等な医師や上司、同僚に対して、立場的には自分が一番弱く感じる。短時間ではあるがそのような洗脳が起きる。
誰しも経験があると思うが、落ち込んでいる時というのはちょっとした言葉で涙が出てくる。さらに落ち込んで容易にどん底まで落ちてしまう。いつもは平気な顔をして聞き流せるような言葉で大きく傷つき、元気な人を見るだけでも落ち込む。こんなメンタルで誰とどう話せば自分のミスを説明できようか。
ミスなんてあって当然というのはよく聞くが、現場は全然違う。ミスを起こした人と、そうでない人のメンタルが違いすぎるから「私が悪かったです」と言いたくなってしまう。こんな環境で誰が楽しく働けるだろうか。
こうした環境にずっといると、常に心が消耗し続ける。急性期看護師の54%が抑うつ症状というデータもあるが、こうした背景があるのではないだろうか。
看護師が責任を負わなくていい環境を作らないと、看護師という仕事は自分の体を消耗させるだけの仕事になってしまう。そなると若いうちだけ、ストレスに耐えうる時期だけ仕事をして耐えられなくなったら辞める、そんな未来のない仕事になってしまう。
なんとか適応して続けられたとしても、それは非常に偏った組織になってしまうのではないか。
それでいいわけがない、日々変化するこの世の中で、限られた人間のみが活躍するような、看護をそんな閉じ込められた組織にしてはいけない。
この状況を打破するためにも、絶対にシステム構築が必要。
ミスをしたらむしろ「ありがとう」で迎える必要がある。
もうこのありがとう理論に関しては意味がわからない発言に聞こえると思う。
「ああ、JOは壊れたか。」「また夢みとるがなこのガキは」と思われても仕方ない発言かも知れないがこの言葉の意図を聞いてほしい。
看護師が消耗しやすいのはミスを起こすという結果もそうだが「ミスを起こすかもしれない」という、常に不安を感じる環境が大きい。
ならばどうにかしてその「ミス」が起きない環境を作り、しかも最悪なことにミスが起きてもそれが貴重なものだとして取り扱われるような環境を作ることで、看護師の消耗は防げる。そして看護師は笑って余裕で仕事ができる。頭が柔軟になり、人に優しくできる。
僕たちの仕事は心の余裕を持って、その余裕を患者さんに提供するというものだと思っている。これは「思いやり」と同じだ。すなわち看護に最も大切なものは思いやり。その思いやりを持つために必要なことは安全や余裕であるという考えである。
例えば自分に余裕がないときに人を助けたいと思うだろうか。遅刻しそうで焦っているとき、困っている人を見かけても声がかけられないのと同じ。
小さなことだがそうした自分の余裕のなさや、できなかったという罪悪感は積み重なり、やがて溢れる。
綺麗事のように聞こえるかもしれないが実際そうではないか。
ミスをしたとき、隠したいと思ったことはないだろうか。自分という立場を守りたいと思ったことはないだろうか。
多忙な業務をこなしているとき、満床の病室から「ドスン」と音が聞こえ、病室に行く。しかし全員がベッドの上にいたら、わざわざ誰が転けたか聞く看護師はどれだけいるだろうか。記憶からその事実を消したくなるのではないだろうか。
話が長くなってきたが、結局何を言いたいのかというと、看護師のミスを防ぐシステムを作り、看護師が責任を負う機会を少なくする必要がある。
具体的には何かミスが起きたとき、それはシステムに起因するものだと言い切れる必要がある。看護師が責められるような環境は健全ではない。
看護師が全ての判断をする必要はないし、その判断は今やシステムを構築し、責任もシステムに任せていいのだ。
今行われている医療の多くは看護師の犠牲の上に成り立っている。誰かが過ごしやすい環境の裏で誰かが気持ちよくない思いをする、こんな環境には未来がない。どこかで断ち切る必要がある。
明日から始めるなどと悠長なことは言ってられない。今この瞬間にもキツい思いをしながら、心をガリガリと消耗しつつ働いている看護師がいる。それは現場でも感じるし、たくさんの悲鳴が僕のもとには届く。
多くの看護師が、心のどこかで看護師の労働環境を窮屈に感じていると思う。
そして、誰もやらない仕事を全て引き受ける看護師の存在を誰も評価しない現状、これはおかしすぎる。
もっと働きやすく、未来に向かって柔軟に変化できる組織になれるはずだと思うし、そうならなくてはいけないと思う。
変化を受け入れ、新しい考えにアップデートする時期にきている。
誰かにわかって欲しくてこんな取り留めのない文章を書いてしまったが、自分はこの状況を打破したい。
だから、看護師の労働環境や地位の向上のためにはどうするべきかを突き詰めたいと思っている。そのために進学をする。
少しでも看護師が認められ、楽しく、ストレスなく働けるように。そんな未来を作るための挑戦をしていきたい。
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