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『インハンド』第6話 人を何を持ってみるか

簡単なあらすじ(ネタバレ有り)

内閣官房サイエンス・メディカル対策室のアドバイザーになった紐倉は、国民栄誉賞が検討されている、男子10000m日本記録保持者、野桐の身辺調査と言う名のドーピング検査に乗り出す。

歯に衣着せぬ紐倉は、「ドーピングはしているのか?」と野桐に聞くと、野桐は当然否定するが、紐倉がさらにアクティヴフェーズで攻めると、「家でも何でも調べろ」と、密着取材することになる。
第一印象は悪い同士だが、綿密なルーティーンをこなし、単純な反復練習をする姿に、紐倉は科学もお同じだと共感し、その姿勢を認め合うのだった。

血液検査をしていたが、結果はシロ。日本の至宝の邪魔をこれ以上するなとスポーツ庁からも釘を刺され、調査を終わるように言われるが、野桐を見ていて違和感を感じていた紐倉は、強引に調査を続行する。
過去の練習映像なども調べると、ルーティーンが変わったことに気付く紐倉。あれだけ緻密に計算されたルーティーンを変えるには、よほどの理由があると踏む。

そこで紐倉の口から出た言葉は「遺伝子ドーピング」というものだった。

ドーピングとは、薬やサプリによって、運動機能を向上させる違反行為です。スポーツの世界においては厳しく取り締まられますが、この「遺伝子ドーピング」とは「クリスパーキャスナイン」と言う技術によって、遺伝子の一部を、希望の遺伝子を組み替えるやり方なので、食事ではない為、通常のドーピングでは検出することはできないのです。

野桐の実家に話を聞きに行くと、がん検診を受けた形跡があった。血液を再検査すると、予想通り「遺伝子ドーピング」がみられた。

大会当日、準備をしていた野桐に、紐倉たちが話に来る。「クリスパーキャスナイン」による遺伝子ドーピングは狙いではない遺伝子に傷が入る「オフターゲット効果」がある諸刃の剣だった。遺伝子ドーピングをしたことで、「悪性リンパ腫」になっていた。徹底したルーティンを変化させたのは、リンパ節がある所を保護していたのだ。

危険がある以上、レースに出ないよう止めるが、野桐は聞かない。
「よくもまぁ、こんな男に期待するよな。ファンには感謝してないわけじゃない。でも、それ以上に俺に大事なことがあるってだけだ。自分っていう人間の限界を超えたいだけだ。誰よりも。0.1秒でも速く走りたい。その景色を見てみたい。後悔はしていない。」
それが遺伝子ドーピングをした理由だった。

その覚悟に、紐倉は止めない。「走ってこいよ。」
野桐は「絶対勝ってやる。」
紐倉「頼んでない」
野桐「お前、気に入らねぇなぁ。」
紐倉「僕は嫌いじゃないぞ。」

不敵に笑った野桐は、大歓声の聴衆と、真実を唯一知り、無事を祈る父が待つトラックにやってくる。いつも通りルーティーンをし、走り始める。世界記録も狙えそうな終盤、野桐は倒れてしまう。最後のレースは、走りきることができなかった。

病院で治療中というニュースを見る高家は、紐倉たちに言う。
「何が正しいくて何が悪いのか。あんなに恵まれた体と才能を持っていてドーピングするのか。」
紐倉は
「彼にとってスピードは力だった。
 スピードは歓びだった。
 そしてそれは純粋な美ですらあったのだ。」

と、野桐が愛読していた『かもめのジョナサン』の一節を言う。
野桐にとってドーピングは、「走りを追求する手段」でしかなかった。そこに正しいも何もなかった。

野桐が好んで聴いていたピアニストは、アルコール依存症だったのだが、彼が依存症だろうが、演奏が素晴らしいことには変わりない。野桐も、素晴らしいアスリートには変わりなかった。

ドーピングは悪いこと?

数年前、ロシアでは国ぐるみでのドーピングが発覚し、国際大会やオリンピックにロシア代表として出場が禁止となることがありました。オリンピックでも、後からドーピングが発覚し、メダルが剥奪されることがあり、日本も初めて100m×4リレーで銅メダルを取得しましたが、先日銀メダルに変更しました。また、アテネオリンピックでも、メダル剥奪によって室伏選手が金メダルに繰り上げになったことがあり、日本にも関わりがある問題だと言えます。

そもそも、なぜドーピングはいけないのか?

作中でも問われていましたが、紐倉は、ドーピングは悪いことじゃないと言い切っています。そして、時代と共にドーピングも多様し、「遺伝子ドーピング」という、発覚しにくいものまで出てきました。

ドーピングがなぜいけないかというのは、一つは「平等性」にあります。「ルールを守る」という、競技においては絶対の約束事がありますが、ドーピングは簡単に言えばルール違反です。そして、目先の勝負の為に身を滅ぼす愚行でもあります

以前「ワイドなショー」で、松っちゃんが、「一度、ドーピング大会をやったらいい。それでどれだけ記録が違うか見ればいい。」という発言をしていましたが、それもアリかもしれませんよね。実際、それほど記録に差は出ないんじゃないかと思います。ただ、明らかに体に悪そうなので、やるにしても一回だけにして欲しいですが(^^;

そして、健全な食事にしても、いずれは「この成分が〜」なんて言い出しそうですよね。そうなったら、「これを食べたらドーピング」とも言われそうです。にんにくとかもダメになるかもしれないですね。

ドーピング問題も、行き過ぎると危険かなと思います。体に悪影響がないものに関しては、自然の食品なら規制して欲しくないものですが、一番大きいのは倫理的な問題なのでしょうね。

ただ、紐倉がドーピングを否定しないのは、競技においてはアウトでも、人類の夢であったり、科学的な視点で、人間の限界を知りたい、超えたいという探究心があるからだと思います。勝つことも大事ですが、勝ち負けは結果でしかありません。結果は受け入れるもの、過程は最善を尽くすもの、という考え方が大事なんじゃないかなと思います。

何を持って人を見るのか?

さて、本当に言いたかったのはこっちです(笑)
最後の紐倉の言葉は、とても重要なことだと思います。
ピアニストがアルコール依存症だろうが、その演奏の素晴らしさは変わらないということ。ドーピングをしても、野桐という一人の走りを追求した人間が素晴らしいことに変わりないこと。

おそらく、ドーピングを認められない、納得できない方はいるかと思います。私も決して肯定はしません。その上で話を進めますが、ドーピング問題は、最近芸能人に多い「麻薬問題」にも通じるものがあると思います。

ドーピングをしたり、麻薬を使用した人への制裁は厳しいものがあります。特に芸能人には社会的制裁はもちろん、ネット社会の今、ネットでは完全に人格否定したり、情報が残り、社会復帰し辛い現状があります。
以前コラムで取り上げましたがピエール瀧さんが大麻を使用し、大問題となっています。他にも、ASKAさんが発覚した時も、CDの販売中止・回収などがありましたが、ピエール滝さんが出演した作品もお蔵入りしたり、撮り直しをしたり、『あまちゃん』などの名作も販売中止に至ってしまいました。

そこで「作品に罪はない」と言われてはいましたが、スポンサー的には印象やイメージの為、そうせざるを得ないのかもしれません。またまた「ワイドなショー」で松っちゃんが「私は作品にも罪があると思うんですよ。ドーピングと一緒ですからね。その上での演技であれば、作品にも罪がある。」と言っていて、賛否両論ありますが、ちょっと私の考えを言わせていただきます。

麻薬をやろうが酒を飲もうが、演技や作品に罪はない。ドーピングしようが、その人だからできることで、麻薬をやれば良い演技ができるわけでも、良い曲を作れるわけでもありません。だからと言って、ドーピングをしないと良い演技ができない、曲が作れないというのでは本末転倒です。
ただ、その人をどう見るかという視点で、ドーピングをしたから悪人だとか、人格否定したり、作品をお蔵入りにさせるのは違うと思います。ドーピングをしたら、まずその先の道は絶たれるとは思いますが、素晴らしさは変わらないのではないでしょうか。

何を持って人を見るのか?

それには、本質を見る必要があると思います。表面的なものだけを見ていては、その本質は見えません。それは人も同じです。人の心や思いが見えないように、言動だけではそれらは見えません。仮に見えたからと言って、見え方や捉え方は人それぞれなので、それが正しいかなんかはわからないものです。

言動だけでなく、その奥や裏にある本質を見ようとする「ウラヨミ」の姿勢が、その人の存在そのものを見ることになるんだと思います。


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