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コメディは物語にて最強

コメディは物語にて最強

何となく聞き覚えがある方にはわかるかもしれませんが、『NARUTO』にあった

「日向は木の葉にて最強」

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出典:NARUTO/岸本 斉史 集英社

をモチーフにしています(笑)

まず、この演題を説明します。

物語といっても、様々なジャンルがあります。
今流行りの異世界ものやファンタジー、恋愛もの、ミステリー、サスペンス、スポーツ、そして、喜劇やコメディなど、様々です。

私も、まだ完成させてはいませんが、現在SF小説を書いているし、私の盟友である喜多バグジさんは、道楽作家として、「ヒョーイザムライ」「エンドビギニング」という作品を、noteでも出しています。


ちなみに彼は、元国交省に勤務した国家公務員でした。3年勤めたものの、政府の闇を目の当たりにして、彼の中の正義感は、国家公務員という勝ち組の職を続けることは許しませんでした。
そして、転職した企業では身分を落とし、様々な壁にぶつかって百万回「すみません」を連呼したり、国交省とは違う闇を感じているそうです。

そんな彼は、「亀有」をこよなく愛し、溜まったヘイトやフラストレーションを、コメディに変えて笑いで伝えようとしています。


感情を物語で燃やす

物書きの人なら、わかると思いますが、嫌いな人やウザいヤツがいたら、その作品の中でボコボコにしたいという願望がすくなからずあるのではないでしょうか?

それは物書きに限らず、スポーツでも同じです。辛く苦しい経験をエネルギーに変えて、プレーとして発散することがあると思います。実際、鬼コーチの狙いは、敢えて憎まれ役を演じて、怒らせることでエネルギーに変えさせようとする人もいます。

「怒り」という感情も、使い方によってエネルギーに変えて、パフォーマンスにすることもできます。

使い方を間違えれば、人や周りに害を与えることだってできます。怒りや憎しみという感情は、相当なエネルギーなので、発散するか力に変えるのものですよね。

でも、コメディは違います。

コメディは、怒りや憎しみを、笑いという違うエネルギーに転換するんです。

だから、コメディは最強なんです。

考えてみてください。どうしても好きになれなかったり、嫌いな人や許せない人で笑えますか?

嫌いな芸人がいたとして、そのネタで笑えますか?私は笑えません。そもそも見ません。

感情一つとっても、表と裏、ポジとネガがあり、それは違うように見えて同質なものです。同質であれば、変換することは難しくはないと思いますが、違う性質の感情に変えることは、そう容易くはありません。

嫌いな人や苦手な人で笑わせる。それは、とてつもない鍛錬と技術が必要です。

なぜなら、「笑える」ということは、その相手を愛し、許しているからです。


道楽家チャップリン

チャップリンは言いました。

「人生は、近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」

この名言は、とても道楽的です。この視点こそが、「道楽」かもしれません。
強烈な出来事は、自分をその事件に縛り付けます。だから、悲劇に感じるのも仕方ありませんが、引いて離れて見れば、または後から振り返ったら、それは喜劇に見えることもあります。というより、喜劇に見る方が、人生を面白く見えるのです。

改めてチャップリンを見ていったら、チャップリンは「道楽家」だと言えますね。

チャップリンの作品の中に、『独裁者』という映画があります。

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その名の通り、とある独裁者をモチーフにした作品です。
一目でわかるとは思いますが、ヒトラーです。

チャップリンは1人二役で、ヒトラーと名もなき床屋を営むユダヤ人を演じています。人種差別に苦しむユダヤ人と、独裁者としてユダヤ人を支配する独裁者を演じています。物語の流れで、この2人が入れ替わってしまうのですが、この作品のラストシーンは、最早伝説となっている演説シーンがあります。


この演説は、独裁者によるものではあるのですが、入れ替わっていた床屋のユダヤ人による演説です。もちろん国民はそれを知らず、床屋のユダヤ人は独裁者として演説するのですが、チャップリンは、独裁者が言うはずのないことを言います。映画は、この演説でエンディングを迎えますが、この数分のシーンは、チャップリンの魂の叫びのようなものを感じます。

二つの大戦を経験したチャップリンにとって、きっと強いヘイトや恨みがあったんだろうと思います。そこで、コメディアンであるチャップリンが取った方法は、「コメディ」でした。きっと、この演説をする為に、この映画を作ったんじゃないかと思いますが、それを言うだけでは、伝わるものも伝わりません。

そこで、一人二役で、ユダヤ人と入れ替わりユダヤ人が独裁者としてこの演説をするという所に、皮肉やアンチテーゼを込めたんだと思います。それは、コメディだからこそ許された所があるのではないでしょうか・

このように、チャップリンは戦争という悲劇を喜劇で描きましたが、悲劇にフォーカスしたりロングレンジで見ることを自由に行き来できることが、「道楽的自由」であり、悲劇を喜劇にできることなのかもしれません。

悲劇を喜劇にする。このチャップリンのような道楽的思考で生きるからこそ、怒りに持って怒りで答えるのではなく、怒りに対して笑いで答えることができるのです。

だからこそ、「コメディは物語において最強」と言えるのかもしれません。


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