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師匠の本意|俳句修行日記

『本意』を「ほんい」と読んだ客人に対して、「ほい、ほいですよ」と訂正を求めたのだが、それを聞いた師匠が、「ゴキブリめ!」と言う。「表面だけ掬って優位性を確保しようとする奴は、道中、足を取られて動けんなってしまうもんぞ。」

『ほい』は、撥音が省略された古典的表現だと言われている。しかし、それを現代でも使い続けるには、そこに意味を見出さなければならない。そんなとき師匠は、古代日本語に思いを馳せよと言う。
『ほ』は、『穂』であり『火』でもある。つまりそれは、たちのぼるものに当てられた音。続く『い』は『寝』であり、根源的状態が持つ響きなのだ。『本意(ほい)』は、書紀の血を引く変体仮名表記となるが、そこに漢語的解釈を加えて、「本当の意味」などとすればまるで、世界は裏側を表にして成立しているかのように感じられる。
 だが、『ほい』とは湧きあがる本質とでもすべきもの。滲み出す思い、あるいは存在理由…


 俳句の歴史を語る時、『古池や蛙とびこむ水の音』は外せない。ここで議論されるのが、蛙の『本意』である。それに触れないでこの句と向き合えば、凡そ静寂を追求した名句との評に留まり、数多ある佳句と同列に置かれることだろう。

 和歌に現れる『蛙』は鳴くものであり、『かはづ』と読んで、川に集うカジカガエルを指した。万葉の昔からその美声を讃え、形状の似る『かへる』と混合してからでさえ、やはりその声を歌うのが習わしであった。そこに歌人は、『本意』を見ていた。
 芭蕉のこの句が現れた時、権威は眉をひそめたことだろう。耳を傾けたところに、突如生活音が鳴り響いたのだから。

 芭蕉の革新性は、この句に代表される。蛙に負わされた『本意』の向こうを張り、辺りに音響を轟かせたのだ。ただその音響は、深い静寂を呼び込むもの…
 師匠は、ここに芭蕉の精神性を見る。「何故?」と問うと、「生命の本質を突いたものだからじゃ」と。

 文化の継承者は、『本意』を『本義』とする。だが『本意』を、醸し出された『原理』ととらえた芭蕉は、その煙幕に隠れた本質をあぶり出してしまった。ここに蛙は、人のために歌うことをやめ、自由に生きる生命体としてよみがえったのだ。
 師匠のたまう。「本意とは、本質の一面を宿した輝きじゃ。じゃが、見つめすぎると目が眩む…」(修行はつづく)