過去のすべてを許す
なかなか難しい。
特に、ブロック解放・観念昇華などで「どんどん良くなっていこう」「望む通りに生きよう」ということを散々やってきたひとには、難しいと思う。
「もっと良くなる」という言葉には、今はそうではないという否定が、「望む通りに」という言葉には、現在は望み通りではなく、過去は更によくなかった、という隠れた否定が潜んでいがちだ。
「今のわたしは十分である。今これでいい」の捉え方のすり替えとして、「今はいい、けれど、過去の自分は未熟だった」という考えに陥ってしまう。
当然だが、全肯定とは、過去も未来も含めて有り様のすべてを肯定しているということで、「今はいいけれど過去はそうでない」というのは、肯定と否定、正誤、善悪の二元論のモノサシに嵌っている。
感覚的に、「あーもうすべてがいいわー」というかんじ。
たとえるなら、滋養あるしじみ汁を飲んでほわぁーとした時のような、お酒にほろ酔いの時、心が解けて世界がきらきら輝いて見えて、じわーと涙腺が緩んでもうなんでもすべてが許せてしまうような。
そういう感覚の時って、本当に「どうでもいい」。
エネルギーワークでもその領域にチューニングすることは容易だ。そこから見ると、「善い悪い」のよいではなく、本当にすべてが「ただ、在って、よい」のだ、と、わかっている。赦せている。
ただ、いずれそこから醒めて、戻ってきてしまう。
ひとときのあの感覚と、いつも生きている感覚とは別物なのだ。
そう思い込むことが、またひとつの分離の罠のように思う。
「真我にいる」と決めつつ、「真我にいようと思わない」こと。真我を追い求めないこと。
ただ、そこにある時は求めない。
求める必要がそもそもないのだ。
求めるわたしがいる時、それすなわち分離だから、ね。
わたしが起こしているのではなく、すべてはただ起きているのだ、という感覚。
そこに少しずつ、慣れていこう。
「過去のその時、できなかったことが、わからなかったことこそが、宇宙全体から見たら完璧なのですよ」という、先達から貰った言葉を忘れないように置いておきます。
こちらからは以上です。