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現実に戻るために本を読む『青空と逃げる』


会社の最寄り駅まで残り2駅、まだ少し眠さの残る頭がこのまま降りる駅を乗り過ごして、終点まで行ってしまおうか、なんて考えてしまう。

それは続いていく毎日に飽きているからでもあるだろうし、普段は見せることのない、心の奥底にあるちょっとした不良心だったりするのかもしれない。なんにせよ、今向かおうとしている場所から逃げ出したいと思ってしまっていることは確かだ。

逃げたいと思うとき、それはたぶん、居場所はここじゃないと心が叫んでいる証拠で、今いる場所は居心地が悪いのだと本能的に感じているのだと思う。ただ、残念ながらそんなことできるはずもなく、聞き慣れた駅名を告げるアナウンスと共に、人の流れに溶け込みながらホームへ足を踏み出すのだ。

***

逃げたい、と思うとき僕は本を読むようにしている。

苦悩している主人公と同じ気持ちになったり、似たような境遇の登場人物が進んでいった道に、答えのようなものを見つけたり、現実で巡り合うことが難しいものが本の中でふと出会えたりする。

現実以外に逃げてしまうことに、若干自分の弱さを認めながらページを一枚、また一枚とめくっていく。

盆明けということで、久しぶりの仕事にうんざりしていた仕事終わり、今朝とは逆方向の電車に乗り帰路につく。駅につくと、足は家の最寄りにある本屋にふらりと向かっていった。

家の最寄り駅にある本屋は、最近22時頃までお店を開けているからありがたい。新刊が積み重ねられている棚、雑誌が並べられている区画を進むと、文庫本コーナーにたどり着く。そのの一角に辻村深月さんの『青空と逃げる』が置いてあった。

移動中本を読むことが多い僕は、大好きな著者でも近々に長期休みでもない限り、新刊が出ても文庫化されるのを待つタイプの読書家だ。

だから、その時も「文庫化されてる!」とまるで子供の頃にはじめて花火を見た時のようなワクワクを胸に、慣例どおり、文庫化された本作を手に取り会計の列に足を伸ばした。

物語は高知県の四万十を舞台に幕を開ける。
東京からやってきた母親の早苗と息子の力。

小学5年生の力は地元の漁師たちと東京ではなかなか見ることのできない涼し気な川でテナガエビ漁を手伝っている。一方で母の早苗も四万十に来てから働いているドライブインの食堂で仕事に勤しんでいる。溢れる自然。心優しい地元の民。つつましい生活がそこには流れる。

しかし、幸せそうな母子の生活を脅かすように、ある男が現れる。

「高知には、旦那さんは一緒に来ていないんですか?」

その一言から、彼女らは居場所を転々と変えていくことになる。

***

彼女らが何から逃げているのか、それは本作を読んでもらうことにするけれど、読んでいて思ったのは逃げるという行為は果たして否定的なものだろうかということだ。

もちろん、彼女らが逃げる理由はたいそうなものだが、早苗も力も行く先々で人と会話し、土地の空気感を感じ、自分の思ったことに素直になっていく。

そして素直になったことで、東京とは別に、新たな居場所を見つけ出すのだ。だから、逃げるというのは、自分を見つめ、本当に自分が居心地の良い場所を見つけていく作業なのだと思う。

それは、読書に似てるなあと思った。
本を読みながら、喜怒哀楽を感じたり、共感したり、自分の心に素直になっていく。そこから現実に戻って、これからはどうしていこうかなと思考する。本を読むことは逃げるのではなくて、ただ自分を見つめ直しているのかもしれない。

そう考えると、本を読むことは自分の居場所を見つけることなんじゃないだろうか。

誰かの物語の中に入り、自分の気持ちを確かめながら、現実の自分へ感化していく。逃げているのではない。また戻ってくるための1行程なのだと、思った。

そうして今日もまた、違う本を読んでいる。
またここへ戻ってくるために。


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