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最後に夕陽を見たのっていつ?『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』



最後に太陽が沈んでいく様子をきちんと見つめたのは、いつだっただろうか。

朝起きて、身なりを整えて、会社に行く。
20インチほどの液晶と、電子音が鳴り響く携帯電話とともに、毎日8時間は働いている。
帰路につく頃には、あたりはすでに闇の中へ落ちていて、人が作り出した電工の明かりだけが灯された街の中を歩いている。

度重なる汚職や、自分だけが害を受けないようにする忖度、政治家の不用意な発言。
直接被害を受けたわけではないけれど、なぜか自分も傷ついていて、最近は天井を見つめて時間を過ごすくらいメンタルが落ちきってしまっている。

どこかここじゃない場所に逃げたくて、映画や本にのめり込んだ。なるべく自分や自分が生きる世界のことを感じないように、別の世界へ僕は飛び立った。

本や映画の中の物語は僕を自由にさせてくれる。

まるでピーターパンのように空を飛びながら、創造の世界を飛んでいるような、夢見心地にさせてくれる。

しかしその時間は永遠ではなくて、気づけば、朝のベルがけたたましく鳴り響き、またいつもと同じような世界の登場人物への準備を始めるのだ。

***

そんな時に書店に並んでいるのを見かけたのが『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』だった。
本書は人気お笑い芸人オードリーの若林正恭がキューバ、モンゴル、アイスランドを旅して感じた紀行文である。

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『社会人大学人見知り学部卒業見込み』『ナナメの夕暮れ』など、自らの自意識との戦いを描いた若林さんのエッセイは読破し、本棚のお気に入りのリストに入れてある僕だったが、本書だけは読んだことがなかった。

それは海外旅行に興味がないことが原因だったと思う。

よく海外旅行に行く友達が、「結局日本が一番いいよ」と口にしていた。
じゃあ行かなくていいじゃんと早めに結論をつけるのが僕の悪い癖でもあるけれど、「なんで行くの?」と聞くと友人は「刺激的だから」と答えた。

ああ結局刺激を味わうのが好きなハイパーポジティブ人間が海外旅行に行くのか、と納得していた。

だから、ネガティブと自ら語っていた若林さんが海外旅行になんて不思議だった。

若林さんは「疑問」が多いように思える。
なぜ自分だけがこんなに悩んでしまうのか。わざわざ悩まなくていいことにまで悩み、それがまた別のなぜを持ってくる。

キューバに行くことになったきっかけもまた、疑問からはじまる。
その疑問が好奇心に変わるところが彼の思考のおもしろいところなので、そこはぜひ読んでみてほしい。

とりわけ僕が好きなのが、キューバで夕陽を見て感じた一節だ。

”マレコン通りの堤防の上からハバナ湾に太陽が沈んでいくのが見える。
なんて美しいのだろう。
人間は太陽が沈んでいくのを見ると心地よくなるようにできている。
そういえば、東京で夕陽って一年に何回ぐらい見ているのかな?”



まだ世界が近代的になる以前、人は日が上り始めを一日の始まりと呼び、それが下り始めた時を一日の終わりとしていた。

今はどうだろう。

太陽が上にあろうが、下にあろうがどこかで誰かは働いていて、始まりと終わりの境界線が曖昧になっているように思える。
加えて世界情勢は、外出の自粛を呼びかけ、外で生々しい自然の動きを観測することすらままならない。

また、そこに人が集まる様子を見てこんなことを思う。



”キューバの街全体にはまだWi-Fiが飛んでいない。
だから、みんな会って話す。
人間は誰かと会って話をしたい生き物なんだ。
本心は液晶パネルの中の言葉や文字には表れない。
アメフトの話や、声や顔に宿る”



当然ながら、僕がキューバに行って感じたことではない。

しかし、きっと僕も同じことを思うんだろうなと感じてしまうのは、若林さんが等身大の感情でその様子を綴ってくれているからなのだと思う。
本書は、人が歴史の中で進化するにつれて捨ててきた根源的な感情を、生々しく思い出させてくれる。

人がもっと1次的な欲求の中で生きてきた、僕が生まれるはるか前のことを。

友人が海外旅行に行って感じる「刺激的」というのはもしかすると、遺伝子レベルで刻み込まれた人間の欲求のことなのかもしれない。

たまにはビル群に囲まれた人工的な街の隙間から、ほんの十分でも夕陽を眺めたい。

そんなことを考えながら、夕陽が落ちていく様子を映し出した動画をYou Tubeで流している。


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