ファミコン誕生物語 第1回
はじめに
この記事の内容は、レトロゲーム・レトロPC・ホビー情報サイト「コペンギン」(コペングログ | レトロゲーム・レトロPC・ホビー情報サイト (kopenguin.com))の運営者でいらっしゃいます koPen様の多大なるご厚意により、「ファミコン誕生物語 第1回」の記事の引用をお許し頂き、Johnnyがそれをアレンジ・文章化し、焼き直したものにすぎません。
最初にそのことをお断りしておきます。
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文末になりましたが、koPen様へ感謝の意を表します。
ファミコン誕生物語 第1回
1.ファミコンのCPU(シーピーユー)
任天堂が1983年に発売を開始した家庭用ゲーム機「ファミリーコンピューター」は全世界で6000万台を超える出荷台数を記録し、後続する「プレイステーション」や「Xbox」などによる世界的な「家庭用ゲーム市場」を創(つく)り、家庭用ゲーム機におけるデ・ファクト・スタンダード(事実上の世界的な標準機)となった正(まさ)に「名機」と言えます。
第1回の今回は、そのファミコンの頭脳と言える「CPU(中央処理装置)」から話を始めることにしましょう。
ファミコンには「6502」というCPUが搭載(とうさい)されています。8ビットCPUが百花(ひゃっか)繚乱(りょうらん)なりし1970年代、度々(たびたび)登場するCPUです。
北米で1970年代はインテル社の「80系」とモトローラ社の「68系」と言われるCPUがコンピューターGeek(ギーク)(オタクの意)の世界では、2分して競合していた時代でした。
そういった時代に開発された6502というCPUが「APPLEⅡ」「PCエンジン」や「ファミコン」に採用されていたことを、ユーザーは後に知ることになります。
2.モステクノロジー社とは?
6502はモトローラ社の68系の設計思想を引き継ぐCPUですが、実はモトローラが開発したものではなく「モステクノロジー」という、モトローラからスピンアウトした技術者たちが作ったCPUなのです。
しかも、ファミコンに搭載されているCPUは日本のコピー機で有名なメーカーである「リコー」が6502をカスタマイズしたものであったのです。
そのため、ファミコンのCPUの正式名称は「Ricoh 2A03」と呼称(こしょう)するそうです(「RP2A03」ともいいます)。
3.ファミコンのはじまり
ファミコン開発のはじまりは1981年11月のある日、山内溥(ひろし)社長の開発2部部長 上村さんへの1本の電話から始まります。
その時上村さんはいつものように定時に帰宅し、自宅でくつろいでいるときでした。
当時任天堂は「ゲームウオッチ」のヒットで急成長していました。
しかし、上村さんの開発2部はアーケードゲーム「レーダースコープ」の失敗により、アーケードゲームから撤退(てったい)していたのでした。
そのため上村さんの部下たちはゲームウオッチのヒットで大忙しの横井軍(ぐん)平(ぺい)さん率いる開発1部への応援のために駆(か)り出されていて、上村さんはちょうど仕事が空いているときでした。
そして上村さんはアーケードゲームに替(か)わる商品を模索(もさく)しているところでした。
4.山内社長からの突然の電話
山内社長の電話での話とは、次のようなものでした。
「ゲームウオッチ」も発売から2年が経過していて、ライバル会社も類似商品を販売し始めているね。
ユーザーもそろそろゲームウオッチに飽き始めている気がしているんだ。
それで、ゲームウオッチに替(か)わる商品として「テレビゲーム」を考えているんだよ。
それを上村さんがやらないか?ということでした。
以前、上村さんは家庭用ゲーム機を手掛けたことがありました。
「うちで家庭用ゲーム機を作れるのは、キミしかおらんのや」
という山内社長からの「鶴の一声」で、「ファミコン開発」が始まったのでした。
5.任天堂は1970年代に家庭用ゲーム機を作っていた?
任天堂は1970年代後半に、三菱電機との共同開発により、「カラーテレビゲーム6」「カラーテレビゲーム15」「カーレース112」「ブロック崩し」などを発売していました。
しかし上村さんは1978年のタイトーの「スペースインベーダー」や1979年のナムコの「ギャラクシアン」に衝撃を受け、家庭用ゲーム機からアーケードゲーム機に転向(てんこう)したのでした。
ところが、自らが開発した「レーダースコープ」が不振であったため、次なる商品を模索していたところでもあったのです。
そこへ山内社長の電話でした。
1980年頃北米では、アタリ社の「Atari VCS」が大ヒットしていました。
日本でも、エポック社の「カセットビジョン」などがヒットしていて、多くの玩具、家電メーカーがしのぎを削っていた時代でした。
後に「ファミコン」を世界的に大ヒットさせる任天堂は、実は家庭用ゲーム機メーカーとしては後発組(こうはつぐみ)になっていたのでした。
その当時、任天堂は1981年に自社開発したアーケードゲーム「ドンキーコング」が大ヒットしていました。
上村さんは考えました。
任天堂の「強み」はアーケードゲーム機(ハードウェア)の開発経験と、ヒットしている面白いゲーム「ドンキーコング」(ソフトウェア)があることです。
更にその考えを推(お)し進めて、ドンキーコングが遊べる家庭用ゲーム機を作るのはどうだろう?と考えました。
それでは早速、電子機器、半導体メーカーに協力を仰(あお)げるのか聞いてみよう、と行動に出ました。
そのようにして、上村さんの「家庭用ゲーム機開発」が始動(しどう)しました。
しかし、上村さんは出鼻(ではな)から大きな壁にぶち当たるのでした。
(第1回 おわり)