泉鏡花の文体と量子コンピュータ
しばらく前に読了した、ある小説の一説を引用します。
この汽車は新橋を昨夜九時半に発って、今夕(こんせき)敦賀に入ろうという、名古屋では正午(ひる)だったから、飯に一折の鮨(すし)を買った。
旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、蓋(ふた)を開けると、ばらばらと海苔が懸った、五目飯(ちらし)の下等なので。
初めてこの文章を読んだとき、率直に言って違和感を感じました。そして、多くの人は私と同様に違和感を感じるものと思います。
なんだか、句読点の使われる意味合いが通常とは異なる気がするし、主語と述語の繋がりも掴みにくく感じます。煙に巻かれたような感覚に陥ると表現すればいいでしょうか。
ところで、ほとんどの人にとって、正しい文章とはビジネス文書といった括りで語られるものではないでしょうか。例えば、次のような指針は良くあるものだと思います。
目的・結論を先に書く
文章は短く簡潔に(接続詞が多い文章はダメ)
箇条書きを使う
曖昧な表現をしない(人によって解釈が変わるのはダメ)
私も、そう思っていました。
泉鏡花の文体を見るまでは。
とはいえ、ビジネスの場面では「ビジネス文章」としての文章表現が適切なことに異論はありません。しかし、それが文章としてレベルが高いのか?という点において「否」と思ったのです。
では、文章におけるレベルとは何かという事になるわけです。
直観的に、ビジネス文章はレベルが低く泉鏡花の文体はレベルが高いのではないかと思った、というのが実際のところですが、これは情報量・情報密度の高さと言い換えることが出来ると考えました。(なお、泉鏡花の1つの小説だけをもって名前を出しているのであって、他の文豪と比較してどうだといった観点は全く含まれていません)
ビジネス文章とは、なんだか、根本的にはすべてを0と1で表現する現代のコンピュータ的だとは言えないでしょうか。それと比較して、泉鏡花の文章は文法的に曖昧さを内包しており、ここで情報とは何かというと、実は文章それ自体で完結するものではなく、それを見た人の感覚・脳の働きにより完結するものですから、言ってみれば…量子コンピュータ的と言えるのではないでしょうか?(専門的ことは解りませんが、0と1の状態が同時に存在するような感じだから情報量が大きいはず)
その意味で、ビジネス文章はレベルが低いというのは間違った表現でもないと言えます。なにしろ、情報をそぎ落とし、曖昧さを排除するわけですから。
量子コンピュータというワードを出したついでに、Wikipedia のページを泉鏡花の文体に翻訳(?)して終わりたいと思います。
量子コンピュータ (りょうしコンピュータ、英: quantum computer)(量子計算機) は、重ね合わせや量子もつれと言った量子力学的な現象を用いて従来のコンピュータでは現実的な時間や規模で解けなかった問題を解くことが期待されるコンピュータ。「量子ゲート」を用いて量子計算を行う原理のものについて研究がさかんであるが、他の方式についても研究・開発は行われている。2022年現在でも全くと言っていいほどインパクトファクターの高い研究成果は出せておらず、まだまだスーパーコンピュータの方が利用価値が高い。本格的な利用開始はかなり先と考えられている。
(https://ja.wikipedia.org/)
【翻訳】
量子コンピュータは、重ね合わせや量子もつれと言った量子力学的な、2022年現在でも全くと言っていいほど。「量子ゲート」を用いて量子計算を行う原理のものについて研究がさかんであるが、他の方法についても、研究・開発は行われた、スーパーコンピュータの方が利用価値が高いので。