「自分がもし今1年生に戻れるとしたら、〇〇をやっておくかな」というアドバイスの難しさ【Withコロナ】
おそらくコロナで、「今までの自分」は一度死んだのだろう。そう考えるのが、1番辻褄が合いそうだなと感じる。
というか、コロナ前にも、同じような、「死」を意識するようなタイミングはあったのだ。でも、忙しさがそれを許さなかった。
部活を拠り所にしていた医学部3年間
コロナ前の自分は、文字通り「部活に生きて」いた。
大学が終われば道場に向かい、22時まで部活動に勤しむ。
その後に1日をねぎらう、という名目で先輩と車でどこかラーメン屋に向かい、1, 2時間ほど談笑する。そして日を跨いだ頃家につき、死んだように眠る。
次の日、脂ぎった顔をこすりながら起き、遅刻ギリギリの電車に乗って大学へ行って、授業中は船をこぐ。
そんな生活をしていて、「自分がやりたいことは何か」と考える時間がどこにあるだろう。
「やりたい勉強」よりも、「やらないといけない勉強」に追われる毎日。時にその「やらなくてはいけない」にさえ追いつけないこともあった。再試験、レポート再提出。
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コロナはそんな生活を、ぶち壊した。
最も、コロナが無くても学年的に幹部、引退となれば自ずと部活動から足は遠のくものなのかもしれない。そうすれば、考える時間は生まれただろう。
しかしそうは言っても、私の生活を劇的に変化させたのが、目下我々の生活様式を一変させ続ける新型コロナウイルスの流行である、ということに嘘偽りは無い。
「医学部を上手く生きるコツ?それはね・・・」
実はこの記事は、以下の新学期講座に関連した話だ。その講座の中で「医学部の6年間」を語るということになった。
22年度入学してくる新入生に対して、何を伝えることが出来るだろうか。
新型コロナウイルス流行前、医学生としての「一般論」を語るのは簡単だった。もちろん大学が変わればその「一般」は変わる。
しかし、オンラインが普及しておらず、大学独自の風が吹いていた状態では「一般」が語りやすかったのだと感じている。
自分の周りには、こんなことを言う人ばかりだった。別にそれがだめだとも、良いとも言うわけじゃない。ただ思い返した時、「そういう環境だったな」というそれだけ。
コロナで全てが変わってしまった。
上のような話はもはや「昔話」になり、今の1,2年生には馴染みのないモノになってしまっている。
会食?あ、今禁止されているので難しいですね。同級生ともあんまり飯とか行ったことないです。
飲み会?あ、コロナとかに関心ないタイプの人ですか?やるとしても4人までですかね。
別にあの頃の日々を返してくれ、と言うつもりはない。今は今で楽しくやっているから。
楽しむとは何か。そんなことを考えることさえも楽しく感じる、今である。
何かを肯定した時、何かを否定している。
突然だが、三大欲求を満たす生活をすることだけが人生では無いのだろう、と思う。
眠りたい時に寝て、食いたい時に食い、ヤりたい時にヤル。
そういう人たちにはエネルギーがあるから、ついついそれをしていない自分が「人間じゃないナニカ」であるかの様に感じてしまう時もあった。
が、結局の所「どこを基準にするか」、または「どの基準を信じたいか」ということがいちばん大切なんじゃないか、と気がつく。
「勉強して自分の脳内に知識を蓄積していくことが素晴らしい」
という価値観を信じている限り、勉強している自分は肯定される。
「3大欲求を満たす、オス、αであることが素晴らしい」
という価値観を信じている限り、勉強している自分は肯定されない。
むしろオスとして終わった存在だ、とケチョンケチョンにされるだろう。
自分を否定しようとする時、一体どんな価値観でモノを考えているのか、どんな価値観に於いて自分を否定しているのか。そういうことを考えるようにしていきたい。
過去の自分、コロナ前の自分を否定しようとする時、それは「勉強することが是である」という価値観が自分の中にあることを示してくれている。
「大学生の本分は勉強」か?
そう思うなら一度、飯にでも行こうじゃないか。美味しい定食屋さんがあるんだ。
では。