#2 さいきんのじょんの話

「かわいいとかっこいい、じょんはどっちが言われて嬉しい?」と最近知り合いに聞かれた。
氷の入ったグラスを傾けながら、相手は極めて自然に尋ねた。からんと氷の転がる音が鼓膜に伝わる。
数秒考えた後に、どっちも嬉しいかなぁ、と私は答える。
そうなんだ!相手は頷き、するりと別の話題に舵を切り、会話は和やかに滔々と進んだ。

私の普段着は少しモード寄りで、「格好いい女性」をトレースしたような見た目を目指している。
加えて私はある人との出会いによって最近自分の性的指向をバイキュリアスからバイセクシャルに改め、積極的に二丁目に遊びに行くような日々を送っている。
その会話がなされたのも二丁目であり、つまり、私たちはお互いがセクシャル・マイノリティ的な側面を持つという共通認識を持っている。
だが、そのとき、私はわからなかった。私をどう認識されるのが理想なのか。 

可愛いと言われて悪い気はしない。愛嬌は武器だ。私はできれば周囲に可愛がられて過ごしたい。そこには、「私の成長を見守ってほしい」「未熟さも受け止めてほしい」という他人に対する甘えたい思いがある気がする。それを認めてくれる言葉だから。そして、女性というハッシュタグに紐づけてくれる言葉だからかもしれない。もちろん可愛い男性も、そうでない性別の方もいるが、自分にとってこの言語は女性性のイメージと深く結びついている。

かっこいいと言われて嬉しい気もする。かっこいいと聞いて私が思い立つのは、自立・信頼や、男性的なイメージである。女性に期待されている社会的イメージ(ジェンダー規範)から外れられる気がする。「頼られたい」「ファッションを認められたい」私の願望を、その言葉は叶えてくれる。

どちらも他人からの賞賛には変わりないし、その言葉をかけた相手にとって自分が魅力的であるとカジュアルに言われているに等しい。だから、嬉しい。だが相反するジェンダー的なイメージを持つ言葉のどちらもに、私は必要性を感じる。それでいて、そのどっちの言葉も表してはくれない不足を感じる。私の自己はそこで引き裂かれる。

女性の他にも、例えば流動性という自認性がある。中性、無性、ノンバイナリー、Xジェンダー。数え切れないほどのラベリングが日本語に存在する。しかし、どれもしっくりこない。
よく話題に上る風呂やお手洗いの性別による分別も、女性用を選択するのに問題はない。
初対面の人に「お姉さん」と呼ばれるのもそこまで違和感はないし、ふざけて自分のことを「お姉さん」と言うこともある。もうめんどくさいしパフォーマンスは女性寄りなのだから、女性でいいや、と思う。
だが、私は女性なのだろうかと改めて自分をに問い掛ければ、わからなくなってしまう、時がある。

このモヤつきは、自分の中に刷り込まれたミソジニーと、男女二元論的価値観が反応している点もあるだろう。
「女性」の中に自分が入りたくない。なんとなくの嫌悪感がある。男性とフラットな存在として見られたい。
だが同時に、「女性」として見られたい場面もあるのだ。女性同士で連対し、シスターフッドを結び、時には同性愛者として好意を向けたり向けられたりしたい。男性に女性として見られたい、と思う時もある。いわば、多くのヘテロのシス女性と同じように。性差を理由に不当な評価の差を与えられたくない、ガラスの天井を突き破りたい、そう思っている女性は多い。知っている。そう、「普通」のことだ。
また、私が他者を見る時、無意識にこの人は男性か女性かを判別したい欲が持ち上がる。そんな必要はないとわかっている。大切なのはその人の自認であり、しかも多くの場合、服の下の構造や性自認がどうなってるかは、その人と私が交友関係を持つ中で、影響することの方が少ないはずである。なるべく自分が誠実であり、あらゆるバックグラウンドを持ちうる相手に対して、傷つける発言や失礼のないように気をつければ良いのだ。自分も自認性を勝手に相手に判別されたら嫌な時もあるのにな、と自己嫌悪に陥る。

思うに、私の7割程度は女性なのだ。だが、残りの3割はやんわりとそれを拒否している。じゃあ何者なのか。わからない。中性的、あるいは無性的でありたいけど、別にどちらの性でも流動性でもない気がする。確信はないけれど。
別に無理にラベリングすることはない、とも思う。ラベルは自分が楽になるために使うもので、私が私である以上別に必要なければ剥がしてしまっても良いのだ。自分の中に、セクシャリティ以外のアイデンティティも無数に存在する。ICU生。成人済み。日本人。晴眼者、軽度の鬱、人と猫が好きな人間。それで充分じゃないか。私の輪郭は充分にくっきりとしているではないか。
ところがまだ足りない、と脳内に声が響く。私は私が誰であるか知りたくて、その為に自認性を確立させたい。どうもめんどくさい。

自分を巡る旅はまだ続きそうだ。とりあえず私は男性ではなさそう、というくらいふわっとした認識でいようと思う。迷わない方が幸せだとも思わない。答えはいつかわかるかもしれないし、永遠にわからないままかもしれない。ただ、「とりあえず生きた今」が積み重なって、その先に現れるかもしれない未来をぼんやり待望したまま、私は生きている。

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