合法ジャンキーの手記‐モンスターエナジー片手に
あらかじめ言っておこう。これは個人の経験であり、飲めば全員が同じ心地になるとは限らない。
ゆえに、これは僕個人の話であり、好き勝手に書く。
モンスターエナジー、変化を自覚する飲み物
モンスターエナジーというドリンクは、飲むと身体に変化を生じさせる。
鼓動のたび心臓が詰まるような感覚が生じ、体温が上昇し、視界があかあか鮮明になり、感覚が過度に研ぎ澄まされる。
ハッキリ異常とわかる感覚に包まれ、いわゆる命の危機的な感触を気軽にひたることができる。
飲まないほうが身のためであろう。
初めて口にしたとき、僕はこの身体異常に不安を抱き、恐怖した。
しかし原稿が忙しいときや仕事で気合いを入れねばならないときに、モンスターエナジーに手を出すことがしばしばあった。
そしていつだったか、確か列島を台風が襲ったあの日だったと思う。
夜間の長期運転が必要となった僕は、モンスターエナジーの力を借りた。
いつもの355mLサイズではなくて、こぼれる心配の少ないフタ付500mLだった。
彼と共に走りつづけ、無事目的地に辿り着くことができた。
そのころからモンスターエナジーを常飲するようになった。
常飲といってもがぶがぶ飲むわけではない。
飲み口から炭酸の泡をすするように摂取し、少しずつ体内の濃度をあげていくイメージである。
355mLを3、40分かけて馴染ませていく。
半分程度空ける頃には、脳内の血管が膨れ、眼球の奥に薄いベールがかかり、脈とともに指先が震える。
かつて感じた恐怖はあるものの、それより「待ってました」という欲求成就の念が勝る。
生と死の狭間に立たされていて、恐らくこのタイミングで全力疾走をすれば、脳か心臓の血管がぶちきれるに違いない。
さらに時間がたつと、缶を持つのもおぼつかなくなる。
距離感をつかみあぐね、気を抜くと倒してしまいそうになる。
気を抜かずに持とうとしても倒してしまいそうになる。
今も、キーボードの誤打が目立ち、打鍵速度が落ちる。
そんな自らに「狂っちまってんなおい」と嗤うのだ。
かつては修羅場を駆け抜ける相棒として用いていたモンスターエナジーであるが、今はもっぱらリラックスのための一本となった。
否、行動を促す際にもこれを飲むので「万能ドリンク」とでも呼称しようか。
当然、心より毒を込めた呼び方である。
エナジー切れの倦怠感よ 浸れ
栄養ドリンクを飲む人であるならば分かるだろう。
この手のドリンクは元気の前借りをするものであり、効果が切れると倦怠感が襲いかかる。
布団から出るのも億劫で、ひどいときには寝返りすらできずに、ただただじっとするしかない。
モンスターエナジーもご多分に漏れず、切れると動けなくなる。
特に最近は気温が下がり、布団の温もりが愛おしくなることも相まって、筋肉に電気信号を送る意志すら消え失せる。
この怠惰なひとときすら心地いい。
これが本物のドラッグであれば、この段階は禁断症状と呼ぶことができよう。
が、ここにも快楽を感じるのが、憎らしいところといえる。
さて、布団から這い出るためのエナジーを得るために、僕はなにをすべきか。
それは当然、モンスターエナジーのプルタブを開けることである。
こうして僕は負のスパイラルへと向かうことになるわけだが、どうかこれからも、ほどほどに付き合っていけたらと思うのであった。
当然のことながら、家の人からも注意を促される。
僕の性格を知っているためか、遠回しに身体によろしくないことを伝えてくれる。
「この手の栄養ドリンクは、ここぞというときに飲むものだ。なんでもないときに飲みつづけると、耐性がついて効果が弱まってしまう」
父はそう諭す。
重々承知の上だ。
動悸を迎えるために摂れ
しかし僕はもはや、自らの身体に喝を入れるために摂取しているわけではないのだ。
摂取し、体内濃度が高まるにつれて訪れる動悸を迎えるために飲んでいる。
この、具体的な信号を感じるのがいい。
乱用している実感がある。
煙草じゃこうはいかない。
あれは単なる娯楽であり、ひとときである。
モンスターエナジーを切らしたときの切望感は一切ない。
(煙草に関しては、「煙草思案」や「栄光のバガテル~葉巻に関する雑記~」あたりをご覧になるとまた面白いかもしれない)
僕はこれを飲んで、またこれを飲んだ手記を遺して、なにがしたいのだろう。
たぶん、どうもしないのだ。
僕とモンスターエナジーとの関係性を明確にしたかっただけ、それだけなのだ。
なんやかんや書いてきたが、モンスターエナジーは決してドラッグではない。
カフェインと砂糖に依存性はある。
僕のこの衝動はその延長線上にあるのだと思う。
ドラッグがもたらす禁断症状と比べれば、あまりに軽すぎる。
そういうことにしつつ、やはり飲んだあとの動悸に期待している自分もいる。
モンスターエナジーを飲みだしてから、今までちっとも立ち寄ることのなかったコンビニに、頻繁に足を運ぶようになった。
無論これを買うためである。
読者諸賢が、こんな僕をジャンキーと見るならば、僕は紛うことなきジャンキーなのだろう。
やめるべきであることは明確であるがしかし、この体験もまた芸の肥やしとなる。
であるならば、やはりこうして文字に起こす必要があるのだろう。
いつか作中でジャンキーを書く必要が出たら、きっとこの体験は役に立つ。
そういうことにしておく。
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