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書けない。

僕は今、文章が書けない。この夏で3年目に突入する。
きっと、ここでいう文章とは「文章」と書き表したほうが適切かもしれない。自分の「文章」を読むと、気持ちが悪くて仕方がなくなる。特に小説の、人間やそれに準ずる輩の言葉に、気味悪さというか、魂のようなもののない、虚ろなものに思えて、拒絶反応が起こるのだ。
ひとえに自信のなさから生じるものだと思うし、もはや完治なんか期待しちゃいけないのかとも思ってしまう。
熾のあかみが灯ったかと思えば消え失せ、灯ったかと思えば消える。何度も何度も息を吹いて、火となることを夢見ては潰える。そんなことの繰り返しだ。河辺で石を積み、いつになったら岸を渡ることができるのだろう、なんて考えている。
今の僕にとって、「文章」とはそういう存在だ。
こうしてnoteを綴っているが、これだって世に一石として投じることができるかも定かでない。現に先月投稿したあとで、下書きのままでいる記事が三本溜まっている。たったの、と接頭語をつけてもいいかもしれないけれども。
それと同じくらい「文章」の下書きデータばかりが増えていく。
「のけもののバラッド」「無題のドキュメント」「杖づくりの老人」「いろんなとこ散歩するやつ」「5000年後の世界」「無題のドキュメント」「旅に行く、旅で思う、旅を表現する」「神は自らを救済するか」「心中仲立人」「孤独死とDo It Yourself」「やさしい男」「歯車になれなかった男」
みんなみんな、消えていく。
立ち昇る煙を、僕は幾度見送ればいいのだろう。

電子タバコをはじめた。
IQOSイルマ。お世話になってる煙草屋の女将が薦めてくれたもので、なるほど、あらゆる銘柄を嗜む人にとっては、豊富なレパートリーのTEREAシリーズは、イチオシを見つける楽しさがあっていい。
まだ全制覇したわけじゃないけれど、レギュラーとウォームが気に入っている。リッチもいい。
そして、いわゆるヤニクラ、ニコチンの血管収縮作用と一酸化炭素による酸素欠乏による作用を、電子タバコではっきり自覚することができた。
以前も、ガラムや葉巻やパイプで、長時間の酸欠状態によるダウナー状態になったことはあるが、サウナと水風呂を経たあとに起こる「ととのい」に近い心地よさは、電子タバコでようやく知ることができた。
電子タバコだから、というより、肺喫煙をおこなったから、という理由によるものなのだが、なるほどこの感覚をこうも容易く得られるものなのかとただただ驚く。
そうして、ぼんやりとした頭のなかで、これを書いている。

煙草は1本で寿命を5分削るという。
肺に満たした煙を吐き出す行為は、どこか魂が抜けていく様に似ている。僕はこうして吸い尽くしたスティックを積んで、いつの日か岸を渡るのだろう。
もっとも、渡るために何本のスティックを消費しなくてはならないのか、さっぱり不明であるわけだけど。

僕は今、「文章」が書けない。
ひとえにそれは、僕が目を逸らしつづける「それ」をものにするまで、いつまでも引きずるのだ。あるいは、そんなものは存在せず、文章を書かないための理由にしているだけなのかもしれない。
もしくは、「文章」を書く、それそのものが「それ」であり、目を逸らしつづけているものであるのかもしれない。
依存できるものがあるのなら、喉から手なり癌なり出してでもしがみつきたい。
でも、せっかく沼にはまるのであるならば、健康で、充実した日々にはまって脱けだせない世界を、僕は望む。

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