大阪という街を好きになった話
電車に乗るのが苦手だった。
電車に乗る人の振る舞いをしなくちゃいけないと思っていたからだ。
……などと冒頭から書き始めてしまうとタイトルとのミスマッチさに悪寒がはしるが、いやしかし電車での体験は大阪を好きになることと密接な関係があるのでどうか赦していただきたい。
僕は神奈川県の平塚市に住んでいる。乗る電車といえば東海道線と小田急線で、他のJR線や京急や東急もたびたび利用する。
その偏ったn=1の所感であることを断ったうえで、改めて言わせていただく。
僕は電車に乗るのが苦手だ。
なぜなら電車に乗るとき、「電車に乗る人」として振る舞わなければならないからだ。
もっと具体的に言うならば、変な乗客が乗り込んできたときのあの、妙な視線がズキズキ刺さっていたたまれなくなるのがイヤだった。変な乗客がいないときでも、ある瞬間に自分がとち狂ってしまいおかしな踊りを始めてしまったら、きっとその視線は僕に注がれることになるだろうという予感に震えなければならないのがイヤだった。
おかしな踊り、などというおかしなたとえを挙げてしまったけど、手に持つ傘を落としてしまったり、躓いてよろめいてしまっても、きっとこの視線は僕へと注がれるだろう。その後、いたたまれない沈黙に包まれるのだ。僕を見ようとする人は誰一人としていない。しかし誰もが僕のことを注目している。
14号車の2番ドア周辺の空間におけるねちっこい沈黙の中心にいるのは、僕だ。
電車という密室から逃れるまで、誰一人として僕のあまりに些細な罪を赦してくれはしない。
自意識過剰と言われたらそれまでだ。実際問題傘を落としたくらいで気にするような輩はいないのかもしれない。
しかし体感として視線が尾を引いてつきまとう。長らくその理由は分からなかった。だからかえって不気味に思える。
だから僕は電車に乗るのがイヤなのだ。
僕は旅をよくする。同人イベントに参加するためだ。基本的に移動手段は自家用車で、たびたび大阪に滞在する。
最大料金の安い駐車場(利便性も考慮し、二、三年かけて今の場所に落ち着いた)に車を停め、宿泊地まで二往復して荷物を運ぶ。
大阪市内の移動は主に大阪メトロを利用する。
地下鉄、つまり電車だ。
地下鉄フリーパスを使えば運賃の心配はないのだが、荷運びという性質上、とにかく妙な姿で電車に乗らなければならない。
胴長な登山ザックを背負い、ビジネスバックパックをお腹に抱え、ポスターの入った矢筒を肩に提げる。
傍から見れば山へ行くのか会社に行くのか弓道場に行くのかわからん正体不明の男性に映るだろう。
加えて僕は異郷人だ。大阪の言葉は話せない。疎外感も相まり、だから僕は常に申し訳なさそうな顔をし、肩をすぼませ、生きててごめんなさいと懺悔しながら車内で過ごしていた。
僕は電車に乗るのが苦手なのだ。
しかしいつだったか、宿泊地に荷物を運ぶ途中で矢筒を車に置き忘れていることに気が付き、普段二往復でいいところを三往復する羽目になった日があった。
僕は憂鬱になりながら宿泊地からパーキングの最寄り駅まで戻らなければならなかった。夜も更け、ぼさっとしていれば日付が変わりかねない時間帯で、疲労の蓄積された身体を引きずるようにして地下鉄に乗った。
頭は疲れていたが、いやむしろ疲れていたから見えたのかもしれない。
少しまばらになった座席に足を大の字に広げて舟を漕ぐ若い男性がいた。
ドアにもたれかかり、しゃがんでスマホをいじる学生風の女性もいる。
ポリ袋をカバン代わりにいくつも携え、ビッグサイズのビールの缶を開ける老人。
集団になって大声で語らう外国人観光客一行。
そんな彼らをものともせずにずんずん歩く年配の女性……。
僕の目からすると信じられないような「電車に乗る人」たちがひとつの車両のなかに凝縮されていたのである。
しかし僕が驚いたのは、実のところ彼らの存在ではなかった。
むしろそうした人たちではない、その他大勢の乗客たちである。
彼らには、地元で感じたあのねちっこい視線というものがなかったのだ。各々が各々のひとときを過ごしていた。それゆえに狂いそうになる重々しい沈黙もなかった。
一見カオスにも思える車内は不思議と調和の取れた空間になっていたのである。
そのとき僕はようやく地元の電車で感じた理由不明の「不気味さ」がなにか、気がついた。
「不気味さ」の正体、それはすなわち「見て見ぬふり」である。
僕らは車内で傘を落としたり躓いたりした人を見て、とっさに「見て見ぬふり」をする。そうすることで「別に私は気にしてませんよ」とアピールするのだ。たしかにそれは間違った選択ではないし、一種の思いやりといえる。
しかしそれこそが「電車に乗る人」としての演技、振る舞いなのであり、車内は意図せず舞台と化し、乗客はもれなく演者と化し、現実世界であるはずがどこかおかしい「不気味さ」となるのだ。
では一方大阪ではどうだろう。
僕からすれば「電車に乗る人」にそぐわないおこないをする人がいたとする。
彼らはチラと見て「なんかおるな」と思う。
それだけだ。
直接危害が加わるでもないかぎり、おそらくそのように捉えているように思えた。
少なくとも三往復目の荷運びの地下鉄、カオスでいて調和の取れた車内において、僕はそんなふうに感じ取った。
彼らは「電車に乗る人」を振る舞うまでもなく混沌とした車内を受け容れていた。眠る人もしゃがむ人も飲む人もそうでない人も関係ない。各々が各々のスタイルで電車に乗っている。好きにすればいいのだ。
そう思えた瞬間、窮屈だった電車に愛しさが芽生えた。
僕もまた好きにすればいいのだ!
(もちろん、「誰かに危害を加えなければ」と括弧付きの「好きにする」なのは言うまでもない)
各々が各々の好き好きに暮らす街。
だから大阪はもの書きとして歩いてもいいし、旅人として歩いたっていい。
きっとすれ違う人々は僕のことをチラと見るだろう。
チラと見て「なんかおるな」と思うだろう。
それだけだ。
これを軽薄と取る人もいるかもしれない。でも僕はこのあっさりさに居心地のよさを感じる。
あれからも、大阪を訪ねれば電車に乗る。
今日も車内には色々な人が乗っている。
つり革を二本使ってぶら下がる人、ドアの隅でぶつぶつぼやく人、大きなキャリーバッグで通路をほとんど塞ぐ人、奇抜すぎて目のやり場に困る人。
そしてどこにでもいる、電車に乗る人。
そういう人を見かけるたびに思うのだ。
ああ、僕は大阪という街が好きなんだ。
そんな僕は、終電近い電車のなかでブルートゥースキーボードを一心不乱に打ち込む人になっている。
「なんかおるな」と思われるに違いない。
そんなカオスで秩序だったこの街を、僕はもう少し旅しようと思った。