『POSE』に見るトランス男性の不在と、夫人の抱える“名前のない問題”
遅ればせながらNetflixにて『POSE』シーズン1を観ました。全8回分。
制作陣もLGBTQ当事者が多く、トランスジェンダーのキャストが50名以上出ると聞いて、前々から気になっていました。でもやっぱり重い腰が持ち上がらなかったのは、
どうせトランス男性は不在で、いつものように女装したゲイやドラァグクイーンと、トランス女性ばかりが、差別を受けながらも特定の場所でのみ闇夜で輝く話なんだろう、と思っていたからです。結論からいうとそれは間違っていなかったのですが、それはそれとして、トランス男性当事者意識なんてものを抹消して観る分には(いつもそう。いつもいつもそう)かなり良作でした。
以下、覚え書きです。
申し訳ありませんが、セリフはうろ覚えなので、原作を観て確かめていただきたいです。
トランス男性の不在
舞台は1980年代ニューヨーク。LGBTQコミュニティはじめ、有色人種や階級の低い人々の集う場であった“ボール”で展開していきます。ボールとは、着飾って踊り、点数を競うディスコのような場所です。
元はと言えば「トランスジェンダー当事者のキャストが集結している」ということで知った作品です。ボールに集まる老若男女を見て、トランス男性もいるのだろうか?と気になりました。もちろん完全に埋没していて、とくにトランスジェンダーの男性として取り上げられることがないんだったらそりゃあ何よりです。めでたいめでたい。
けれども、ではトランス女性にばかり「ホルモンバランスが悪い」「下半身の手術がしたい」と医療方面の発言を任せっきりで、まったくトランス男性のトランス性が見えてこないのであれば、やっぱりトランス男性は出演していないのか?たとえ出演はしても全く特有の問題に触れられていないのか、と失望するわけです。まあ大概トランス男性の方が医療面でも進歩が遅く、男性ホルモンの入手も手術も、トランス女性に比べるとイマイチなので、この時代ならなおさら姿が見えないというのはリアルなのでしょうが。
もしかしたら単に男性同性愛者として描かれている男性のなかにもトランス男性はいるかもしれない、と完全には望みを捨てずに観続けます。けれども「ナニは大きかった?」みたいなセリフが出ると一瞬でパーです。知ってるぞ、このノリ。結局そこで描かれる“セクマイ男性”はシスゲイであり、トランスゲイではないのです。
ペニスのない男性は男性として想定されることはありません。フェミニズムが女性の身体について言及する(しなければならない)多さに比較すると、男性学のなかでは、男性の身体に言及する機会はまずもってありません。これは、社会全体がman=男性基準でつくられているからでしょう。しかし唯一男性性の話題で出てくる男性の身体といえば、ペニスなのです。フロイトから包茎ビジネスに至るまでそうなのです。
もう一つ、意識の差からもトランス男性の不在が読み取れます。シス男性間では「ゲイは女々しいヤツ」という認識が大半でしょうが、トランス男性からしたら「ゲイの仲間入りなんて、男らしくて嬉しい」という認識のズレがあるのです。これは大きく取り沙汰されてきませんが、トランス男性の男性性に固有性があることの一例でしょう。そのためゲイが「女々しい存在」として描かれている限り、そこにトランス男性の意向は反映されていないと見るのが妥当です。
トランスジェンダー女性のキャストや演出が成功している点は、他にメディアやトランス女性当事者が発信してくださると思うので、
私からは「トランスジェンダーって言っておいて、いつもトランス女性しか出さないじゃないか」「ゲイって言っておいて、トランス男性のゲイ(バイやパンセクも)は常に無視されるじゃないか」と文句を残しておきます。
白人エリート男性がトランス女性に惚れることもある
トランスジェンダーがメインではありますが、他に白人夫婦が登場する点は素晴らしいと思いました。この白人夫婦の登場によって、LGBTQコミュニティの歴史に限らず、第二波フェミニズムと、男性学で語られる問題も見事にすくいとっているからです。
エリートな白人男性スタン・ボーズは、娼婦のエンジェルに恋をします。エンジェルはトランスセクシュアル女性でした。ちなみに作中表記は英語でtranssexual、日本語訳では「トランスセクシュアル」でした。
1980年代ニューヨークでは、性別適合手術はほとんど行われていません、というか実験台として最初の1人2人になってみるか?というレベルです。なのでトランスセクシュアル女性というと、下半身にナニがついていて、正体を知られると大半の無理解な人には女性として扱われない、というわけです。そういうわけで、そんな彼女を愛したスタンは悩むことになります。俺は同性愛者だったのか?なぜ惹かれた相手が彼女だったのだろう?と。
しかも当時、トランス女性からしたら、手術をしていないからこそ“珍しいモノをつけている女性を支配したい”という願望をもつ、白人エリート男性に金銭的援助をしてもらえる、という状況がありました。実際に作中では、手術をしたことで、男性からの援助を打ち切られるトランス女性の姿も描かれています。そのため下半身へのこだわりは、トランス女性本人の身体違和に限らず、関わるエリート男性にとっても一大事であったようです。
白人女性の“名前のない問題”
一方で、浮気される側の白人女性パティ・ボーズの気持ちに迫っているのが本作でなんと言っても良いところだと思います。パティは、家庭を守る専業主婦です。
「夫は愛しているけれど、このままボーズ夫人として過ごすのは嫌」と、ベティ・フリーダンでいう“名前のない問題”を取り上げているのです。この夫人はまさに“理想化された幸せな郊外の夫人”という設定そのままで、中産階級の主婦が感じる虚しさや不安を体現したようなキャラクターです。
本当に郊外に住んでいますし、医者にHIV検査を申し出た際には「あなた方のような幸せな家庭になんの問題もないでしょう?」という態度を取られてしまいます(そこで、「いいから、検査して!」と珍しく白人女性が声を張り上げる場面がまた良いです。夫がトランスセクシュアル娼婦とセックスした、と知った後の描写です。)
白人女性パティは、浮気相手エンジェルの居場所を知ると直接会いに行ってしまいます。エンジェルに対してどんなトランスヘイトが繰り出されるのかと構えている(バケモノ!とか気持ち悪い!って言いそう)と、しかしながら案外カフェで建設的な会話をするのでおどろきました。
というよりは、パティからしたら夫の浮気相手は「職場が同じ白人のエリート秘書か?」程度のよくありそうな予測だったというのに、浮気相手の正体が“プエルトリコ系の褐色の肌をもったトランスセクシュアル女性で娼婦”という現実を知って、すぐには飲み込めなかったというのが正解かもしれません。
しかも夫の方から桟橋にいたエンジェルに声をかけて、肉体関係から始まり恋人として一緒に過ごすことまで求めたというのですから。ここもポイントです。
トランスセクシュアル女性であるエンジェルの方からではなく、エリート白人男性のスタンの方が惚れているかのような描写も見事です。トランスパーソンばかりが一方的にシスパーソンの愛を求めているのではありませんし、トランスジェンダーのセックスワーカーだって本気で愛されることがあるのです。この部分に関しては、「不運で不幸なトランスジェンダー像」を終わらせるためのリアルを見せつけた、といえるでしょう。もちろん恋愛模様はエンジェルにとっての一側面で、“ハウス”というコミュニティでの家族のような関係性も見どころです。
さて、浮気を知ってしまったパティは夫スタンに、一時的に家を出て行くよう告げます。とはいっても、「あなたはダメな夫だけど、良い父親だから」と、子供たちに会う機会はしっかり設けようとしました。感情的に離婚して終わり、としなかったのも、パティという“いつも夫の脇役で意思のない専業主婦”として描かれがちな女性をきちんと描いた証拠ではないでしょうか。
パティにまつわる素敵な描写は他にもありました。
夫の上司は、パワハラかつセクハラ常習犯のような男性です。上司はスタンが愛人を養うために給与アップを申し出た事態を察知して利用します。
(第3回で、スタンがクリスマスプレゼントを買う際の店員の応対からしても、エリート男性たるもの、愛人を持ってこそ一人前!という規範があったように思います。スタンが積極的に明言することはありませんが、エリート会社員として勤めなければならない男性の苦悩が表情から読み取れます。そして、だからこそそんな平凡でつまらない自分の人生とは違った、エンジェルが魅力的に見えたのかもしれません。)
上司は夫婦間の弱みを握ったつもりでイイ気になって、パティが1人でいるタイミングで家まで訪問してキスをします。しかし白人女性パティは流されてうやむやにせず、断りました。再度会ったときには「夫がいなかったとしても、あなたのことなんか好きにならない」といったセリフを吐くのです。よく言った!
最終回ではパティは、夫スタンに「私は大学に行って博士号を取りたい」と主張します。世間の“幸せ像”を押し付けられ、それしか歩めなくなっていた専業主婦の状況から一変して、そうした決意が出るところまでパティの変化が見られるのは素直に嬉しいです。夫に対しても、ニューヨークのエリート会社員にこだわらなくても、そばで勤務してもっと子供たちと過ごせる生活にしたら、と提案します。男女のジェンダー観が変わりゆく瞬間といえます。
以上、『POSE』の感想でした。