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光を添える
はじめに
ーChoice. The problem is choice.ー
映画『The Matrix Reloaded』(邦題:マトリックス リローデッド)
選択肢は豊かさ、選択は強さ
自由というのは毒薬のようなものであって、あらゆる人間がこれに耐えうるものではないわけです。むしろ命取りになるような要素を含んでいる。そういう自由に耐えることができた人間はどれだけあったかというと、古代史中でギリシア人社会の自由というものは、オリエントの専制政治とローマ帝国の専制政治との間に短期間栄えた一つのエピソードに過ぎなかったのです。(中略)
現在二十世紀において、民主社会というものはどれだけあるでしょうか。いわゆる解放と称するものにおいて、どういう自由が実現しているのかということを考えてみますと、自由というものに値する人種とか人間は、本当にいるんだろうかと思いますね。自分が持っている自由に値する人間になれと昔の人は言ったけれども、その毒薬に耐える人間はなかなかいないんです。
以前「人は生きざま」という文章を書いた。人の生き方には当然その人の選択が反映している(もう一つ遡ると選択にはそう判断するこころが反映している)。
古代の四聖賢の「人類愛」について、彼らは決して雷同とか群れるということはなかったけれども、自分の周りだけ平穏であればいいなどとは考えずに、人々の中を歩いていった。この強さ。丁度『The Matrix Revolutions』においてNeoが“Because I choose to.”と言ったように、こういう人達を金とか力ではどうすることもできない。
人間の領分
神的な事象を探求する者たちも、一旦これらがいかなる必然によって生じたのかを知ったときには、これによって望みのままに、風や水や季節や、その他何でもあれ、必要を感ずるものを生じさせようとするのであるか。それともかようなことは望むのでなく、ただこれら各々の事象の原因を知りさえすれば足るのであるかと。
悪徳が滅びるとき美徳も滅びるとか、悪行がなくなるとき善行も絶えるとか、光があれば影もある式の表現は当然正しい部分もある。しかし世の中というか人間はそれだけではない。影のない光もあるはずで、表題の光はこちらのことを指している。岡潔が仏教の用語を借りて小我と真我という言い方をしたものと対照させると、影のある光が小我的、そうでない光が真我的であると私は思っている。科学が永遠に明らかにしないであろうこの辺のところを感受性として持つには、歴史の小説などを読んで「自分ならどうしただろうか」と自問自答してみるのが良いと思う。
おわりに
ーYou can always go to Paris. Just, please, not tonight.ー
映画『The Family Man』(邦題:天使のくれた時間)
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余談
民主社会、自由社会で選択を放棄すると、代償は大きい。
ところが、どんなものにも平等な価値を認めるとなると、そういうものが否定されてしまって、どんな生き方をしてもいいということになる。(中略)
こういう社会においてしか、プラトンの言っているような、本当にいい人は出ない。つまり偽善的でない本当の善人、いろいろな評判とか社会的制約があるためにどうやら善良になっている人ではなくて、そういう制限がないのに正しくてりっぱな人というのがあるとすれば、これは本当にいい人である。そのような本当によい人というのは、こういう社会においてしか生じないと言っています。
と同時に、そこではあらゆる欲望が解放されますから、その正反対の非常に悪い人間、ちゃんとした社会ならば社会の片隅で生活していかなければならない人間が、中央におどり出てきていろいろなことをする。スター的な存在になったりする。そういうふうな混乱が起こってきます。最悪の人間のほうが、あらゆる制約が捨てられると、むしろたくさん生まれてくるわけですね。
そういうふうな社会においては、人間的に下等な欲望に訴えるという形で権力を狙う最悪な人間が出て、政治的指導者になる。お家騒動において殿様に酒を飲ましたり遊ばせたりしてお家を乗っ取るという悪人がありますけれども、そういうふうに、一般人民に口当たりのいいことを言い、非常に民主的なことを言う。
文責筆者