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鈴木大拙「禅と日本文化」 part.1


-中国人の心が、インドの思想に触れた後に生み出したもの。
-中国人はインド人に比べ、哲学的な考え方をあまりしない。
→出家暮らしへの支持、超越主義、人生に否定的な世捨て人になりたがる傾向性を嫌った。
→手触りのある多くの物事との繋がりを決して失わず、私たちの日常生活の実際的な側面を無視する事も断じてなかった。

禅のこだわり

-事物それ自体を扱う事であり、空虚な抽象化ではない。
-言語は常に現実から遊離し、概念へ向かう傾向にあるという事実を強く意識する。
-そして、この概念へ向かう傾向こそ、禅が反対するもの。
→禅では経典の読誦が軽視され、抽象的な主題に関する議論への深入りも顧みられない。

禅僧のなす事
単純な肉体労働である様々な実際問題への対応、そして、師僧が折に触れてする謎めいた説法を聴き、それに対する質問をして答えを得る事。

内面の生における自由-悟り
-禅とは「自由(self-reliance)」と「自在(self-being)」の宗教
-ブッダの教えは、彼自身の悟りの経験に始まる。

悟り実現の為の2つの道

・禅語(Zen verbalism)の道
言語や弁証法の哲学とはまるで異なる。

禅の哲学 
禅師の問い:「これを杖と呼んではならない。何と呼ぶか?」

-言語的な謎の解明ではなく、心そのものへの接近に関心を抱く。
-あたかも山頂の影から雲が昇ってくるように、自然に、不可避的に、心それ自体に数々の謎を表出したり染み出したりする。
-私たちの関心は、その表出する実体を持つ対象、すなわち言語にあるのではなく、どこかその辺りに漂っているが、曖昧な「何か」。
-それを「心」と呼ぶのも、経験の事実からは遥か遠い、名付けようもない"X"
-抽象的ではなく、十分に具体的かつ直接的なもの。しかし、それを言語の枠内に押し込めることはできない。
-それを試みようとした瞬間、そのXは消え去る。→「不可得」
-杖は杖にして杖にあらず

・行為の道
一般的な感覚では、行為的という概念には「身体」が伴う。
しかし、禅における直接的な行為には、「現実」の鼓動と同期する特定の意識を弟子の心に目覚めさせる、という深い目的がある。

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野鴨が飛んでいる。
師匠「あれはどこへ飛んで行くのか?」
百丈「もう飛び去ってしまいました」
師匠は百丈の鼻をつねった。
師匠「あれが飛び去ったと言ったのは誰だ?」と返す。

師は、雲の彼方へと消え去り概念と化した鴨について語っていたのでは、全くない。
百丈という「人」の外側ではなく、内側にある彼自身と共に移動する、生きた鴨に注意を向けさせることにあった。

ここでいう「人」とは、「あなたのそば」を歩くものとしてよく言及する、「三人目の人」に象徴される存在。


・道Tao

-禅は私たちの日々の経験であり、外側から採り入れられるものではない。
それに気づかせるのが、禅の修行の目的。
-道が私たちの日常の経験を超えた高度に抽象的な何かであったなら、それは現実の生活とは何の関係もなくなる。
-禅の学びにおいては、概念化は消え失せろ。
-意味は、存在それ自体の中にある。
-「このまま」あるいは「ありのまま」の生。「ありのまま」の現実。

芸術家は、形や音のないところから形や音を想像する。
この点で、芸術家の世界は禅のそれと一致する。
禅が実際に行うのは、無限に広がる時間と空間のキャンバスの上に、自己を描くこと。
禅者は自身の生を創造的な作品へと変える。

・わび=poverty
-俗世の物事-富、権力、名声に依存せず、他方で、時代や社会を超えた至高の価値を有する何かを、内面にありありと感じ取ること。

 西洋の近代的な贅沢品や暮らしの快適さが浸透したにもかかわらず、わびを崇拝したがる根絶できない憧れは、依然として私たちのもとにある。
 知的生活においてさえ、求められるのは観念の豊かさではなく、思考を整理したり哲学的な体系を構築したりする上での才気や厳粛さでもない。
 むしろ、自然への神秘的な観想に充足し、ただ静寂の中に留まって、この世界を我が家のように感じ取ることの方が、私たちにはずっと大きな感動がある。

・さびー不完全性の美
-古めかしさや原始的な粗野さ
-孤高の状態は沈思黙考を促し、派手な表現運動には結びつかないが、そこには説明不可能な要素がある。

一即一切、一切即一
あるがままの魂をしっかりと捉えること
「道とは何ですか?」「道だ」
「禅とは何ですか?」「禅だ」
「雲は空にあり、水は瓶にある」


禅と武士

武士を支えた禅-道徳と哲学
道徳-進むべき道を一度決めたら後ろを振り返ってはならない
哲学-生と死を差別しない扱い方

武士の心は単純で、哲学的な議論には溺れない。禅と武士の関係が近い所以。

「武士道とは死への覚悟を意味する。
分かれ道に来たのなら、死に至るほうの道をためらわずに選べ。特別な理由は何もいらない。自分の心が整い、事に当たる準備ができたなら、それで十分だ。
人は言うかもしれない。目的を達成しないまま死んでしまったら、それは無駄死にや犬死にであると。だが、分かれ道に来た者が、目的を達成するための計画を立てる必要はない。
私たちは皆、死よりも生を好み、生きるための計画や理由を求めるのが自然だ。そうであれば、もし目的を見失ってなお生きているのであれば、それは本物の臆病者である。
ここが重要な考えどころだ。目的を達成しないまま死んだ場合、それは犬死にー狂気の沙汰ーかもしれない。だが、ここにあなたの名誉を傷つけるものはない。
武士道では、名誉が最初に来る。それゆえ、毎朝毎夕、心の中に死の観念を鮮明に刻印せよ。いついかなる瞬間にも死の覚悟が徹底して確立された時、武士道の局地にたどり着く。
人生に欠けるところは何もなく、責務は余すところなく果たされる。」

風流: 私心を離れた自然の楽しみ方
辞世の句: 死を超越し、これを客観的に見つめられるように

武田信玄 辞世の句

「大ていは地に任せて肌骨好し紅粉を塗らず自ら風流」

現実の絶対的な完全性
私たちは皆そこから来て、そこへ戻り、その中にある。多数のものからなる一つの世界が、過ぎ去っては、またやって来る。けれどその背後では、変わることのない完璧な美が常に存在し続ける。


上杉謙信 

一生の栄は一杯の酒のよう
四十九年の生涯は一晩の夢
生を知らず死もまた知らず
歳月もまた一晩の夢のよう

「極楽も地獄も先は有明の月の心に懸かる雲なし」

-極楽も地獄も後に残して、夜明けの月明かりに照らされて立つ私の心に執着の雲はない

-禅は武士たちと、魂の不滅性、正義、神の道、論理的な行いなどについて議論したわけでは必ずしもない。そうでなく、人がいかなる合理的・非合理的な結論に辿り着こうとも、ただ前へ進むよう促した。
哲学は、知識人の心の内に預けておくので大丈夫だろう。禅のほうでは行為を求める。それは最も実効性のある行為であり、いったん心が定まったら、後ろを振り返らずに進み続ける。こうした点で、禅はまさに武士の宗教である。

part.2はこちら

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