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「泥的」という名の新しい寄り合い
長野市を拠点に10年近くthee(シー)という演劇ユニットを続けていて、首尾一貫して悲喜劇をやってきたつもりだ。時に寓話的で、時に土着性の高いシチュエーションを毎回考えては舞台に乗せて、さまざまな悲しみと笑いを創作してきた。
ウイルスによって3年ほど劇から遠ざかる間に、気づけば世の中は悲劇的なことばかりになっていた。国同士の諍いもある。世界中に蔓延る病気もある。貧富もあるし、性暴力も増えた気がする。なんだか悲しいことばかりだ。そしてこれらを題材にした劇を作っていたのだと気付いた。もうそんな劇いらなくなっているのだ。
たった3年前までは、悲劇的なメッセージやテーマを発信することで世の中の小さな悲しみを払拭し、警鐘となるだけの力が創作物には(嘘には)あると信じて劇作をしたけれど、もう悲劇的なメッセージやテーマなんていらない気がしている。生きてりゃ何かしら悲劇だろと言われたらそれまでだけれど、そこにあえて光を当てる気が起きない。笑っていたらいいじゃないかと思い始めている。無駄口だけ叩いて、おしゃべりだけしていたらいいじゃないと。
そしてなにより「テーマ」とか「メッセージ」というものにものすごく懐疑的になっている。飽き飽きしている。そんなものよりも「ルール」に沿って劇を作ってみたい。たとえばスーパーマリオブラザーズは、「クッパにつかまったピーチ姫を助ける」というテーマよりも、「強制的にずっと右にしかいけない」「きのこを取ると大きくなる」というルールの方が印象的であるように、一定のルールに基づいた脚本で劇作してみようと思っている。明らかに過去10年の創作とは異なった視座によって新たに「泥的(どろてき)」という名前でその寄り合いを始めることにした。
きょうが泥稽古始めなので、記録として。泥的な劇を。