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JOG(606) 嶋野榮道師 ~ ニューヨークの禅僧

「大事なのは、彼らと一緒に座ること、共に食事をとること、共に行動することだと気づいたのです」


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■1.ニューヨークに降り立った禅僧■

1964(昭和39)年の大晦日、30過ぎの若き一人の禅僧がニューヨークのケネディ空港に降り立った。警策(JOG注: 座禅の時、修行者の肩を打つ棒)一本と、仏像1体、スーツケース1個、現金5ドル、これが所持品のすべてだった。嶋野榮道(えいどう)師である。

「これからこのアメリカに、座禅の味と仏法のありがたさを広めていくんだ」と、胸の中は高揚感に満たされていた。5ドルはマンハッタンまでのバス代だけで、簡単に日本に帰れないよう、背水の陣で臨むためだった。

 榮道師はニューヨークに来る前に4年間、ハワイで座禅の指導をしたり、大学で仏教の講義を受けたりした。ある時、ハワイ大学の図書館で歴史家アーノルド・トインビーの本を見つけ、手にとってパッと開くと、そこには "Transmission of Buddismfrom East to West" (仏法東漸)という言葉があった。将来、世界の歴史家が集まって、20世紀最大の出来事は何かと議論したら、原子爆弾や世界大戦よりも、仏教が東洋から西洋に伝わったことであろう、というのである。

 仏教がインドに生まれ、中国、朝鮮と東漸して、6世紀半ばに日本に伝わった。この仏教がさらに東漸するなら、アメリカ大陸に伝わることになる。榮道師は、この偶然に出合った言葉に、天から自分に与えられた使命を感じた。

 そこで、すでに仏教普及の先駆者のいるハワイやロサンゼルスでなく、ニューヨークを選んだのである。

■2.スパゲッティーと水で飢えを凌ぐ■

 その晩は、セントラル・パークまでバスで行って、日本で面識を得ていたワイス博士の家に泊めて貰った。翌元日、ワイス博士の奥さんが、近くに小さなアパートを見つけてくれた。家賃は110ドルだったが、月末に払うことで了解して貰った。

 ワイスさんの奥さんは毛布を二枚持ってきてくれたが、それ以外にはベッドもない。元日の午後から、榮道師は完全に一人になった。所持金は2ドルほどしか残っていなかった。とにかく腹が減ったので、残ったお金でスパゲッティの缶詰を買い、それと水道の水で空腹を満たした。

 1月2日になった。何もしなくても腹が減る。ともかく街に出てみたが、厳しい寒さの中、コートもなし、足袋と草履で歩き回った。

 道を歩いていると、"What are you doing? (何しているんだい?)"と、一人の男性から声をかけられた。僧の衣装が目を引いたのだろう。「日本から来て、座禅の道場を作るつもりだ」と答えると、"May I come?(行ってもいいですか?)”と聞いてきた。「いいよ」と答えて、アパートの住所を教えた。

 シドニーというその男性は本当に榮道師のアパートにやってきた。線香を焚(た)いて、二人で座禅をした。帰りがけに、シドニーは、"May I make contribution? (寄付をさせて貰ってもいいですか?)と聞いて、5ドル寄付してくれた。これでまたスパゲッティが食べられるな、と榮道師は思った。

 シドニーはたびたびやってきては、座禅をし、帰り際にかならず5ドルの寄付を置いていってくれた。こうして、食べることだけはなんとか目処が付いたが、月末には110ドルを払わねばならない。崖っぷちに身を置いて、などと偉そうなことを考えたのは間違いだったか、と榮道師は弱気になった。

■3.「果たして私は法のために心身を捧げていただろうか」■

 なんとか月末までに110ドルを作ろうと、榮道師は職を探すことにした。何社か断られたあと、東京銀行のニューヨーク支店で運転手として雇ってくれることになった。これで家賃はなんとかなる、とほっとした瞬間、日本で師から習った言葉が雷鳴のごとく響いた。

 If you give yourself to the Dharma, the Dharma willgive itself to you.
(もし本当に法のために心身を捧げるなら、法のほうからやってくる)

忘れていたこの言葉が急に頭の中に浮かび上がって、榮道師は気がついた。

 なるほどそうだったのか・・・。果たして私は法のために心身を捧げていただろうか。毎日毎日ひもじいとか寂しいとか思うだけで、ニューヨークに来てからというもの、坊さんらしいことを何もやっていない。いくらなんでも銀行のドライバーになるために坊さんになったわけではないし、ニューヨークに来たのでもないだろう・・・。

 断食をしているといえば、聞こえはいいけど、お金がなくて食べ物が買えないからだ。朝は遅くまで寝て、座禅も掃除も読経もしたりしなかったり、という毎日だった。これでは法のほうから近づいてくれるはずもない。「困り果てるのは当然だ」と素直に思った。

 榮道師は東京銀行の仕事を丁重に断った。すると、相手は「何か事情がおありのようですね。よろしかったらお聞かせ下さい」と急に態度を改めた。榮道師がニューヨークに来た思いを洗いざらい話すと、相手は「よく分かりました」と言って、アパートでもできる簡単なアルバイトの仕事をくれ、110ドル払ってくれた。これで一月の家賃を払える。突然、目の前が開けたような気がした。

■4.「法のほうからやってくる」■

 それから、榮道師は「とにかく一生懸命やってみよう」と心に決めた。誰もいないとか、誰も見ていないとかは関係ない。

 朝は4時に起きて、僧堂並に部屋をきちんと掃除する。座禅も読経も、きちんとやる。禅僧として当然だが、その当然のことをきちんとやるのが法に心身を捧げる第一歩だと考えた。

 そのうちに、シドニーが何人か友達を連れてくるようになった。彼らも、本物の禅僧の生活を送るようになった榮道師に何事かを感じ取ったのだろう。彼らは「ベッドがないじゃないか」「机も必要だろう」と言って、いつの間にか生活に必要なものが揃っていった。

 シドニーが連れてきた人の中にケイという50代半ばのカナダ人女性がいた。ある朝、榮道師が一人で座禅を組んでいると、ケイがやってきて、「カナダに帰らなくちゃいけない。これはお供えに」と、封筒を仏像の前に置いた。「ありがとう。でも、帰っちゃうのですか。寂しいですね」 そんな話をして別れた。

 ケイが帰ったあと、封筒を開けてみると、そこには数年分のアパート代の相当する金額の小切手が入っていた。

 こうして榮道師が禅僧として心身を捧げようと決意した途端に、人々がやってくるようになり、彼らを通じて必要な物もお金も自然に集まるようになった。まさに「もし本当に法のために心身を捧げるなら、法のほうからやってくる」が現実となったのである。

■5.「われわれアメリカ人はあなたに何もしていません」■

 そのうちに、非常に気品のある老夫妻がアパートにやってくるようになった。名前も名乗らず、ただ来て、ただ座って、帰っていく。榮道師の方からも何も尋ねない。誰でも受け入れて、「どうぞ」という気持ちで座禅をして貰っていた。

1年ほどしたある日、夫君の方から電話がかかってきて、「会いたい」と言う。「どうぞ」とお招きして、一緒にお茶を飲んだ後、彼は次のように切り出した。

 あなたは遠く日本から来て、われわれアメリカ人のために座禅を教えてくれています。しかし、われわれアメリカ人はあなたに何もしていません。申し訳ない。そこで家内と相談して、何かお手伝いをしようと思います。

 夫妻は数日後にまたやってきて、小さなビルが買えるほどの金額の小切手を置いていった。

 これがカールソン夫妻との出会いだった。夫のチェスター・カールソン氏は貧しいスウェーデン移民の家に生まれ、苦学して物理学を学んだ。やがて一人で研究をして、コピー機の原理を発明し、ゼロックス社の前身に特許の権利を売って、億万長者になった。そして自分と同様、苦労しながら頑張っている人たちを後援していた。「死ぬときは一文無しで逝きたい」というのが口癖だった。

■6.「何ものかがして御座る」■

 榮道師は、このお金で禅堂用のビルを持てるかな、と思った。すると、数日後、マンハッタンの一角に、妙に気を引かれるガレージを見つけた。3階建てで、大きさは禅堂にするのにぴったりである。そのうえ "For Sale (売出し中)”という札までついている。しかし、その値段はカールソン夫妻からいただいた額よりも高かった。

 榮道師はビルを購入する決心を固め、不足額は銀行でローンを組んで貰った。数日後、カールソン夫人から電話で「その後どうですか」と聞いてきた。ローンを組んだことを話し出すと、途中で遮って、"Don't do it. We will take care of it. (やめておきなさい。私たちに任せなさい)”とぴしゃりと言われた。

 そこまでして貰ってもいいのかな、と思いつつ、ローンを解消すると、夫妻は残った借金をすべて払ってくれた。

 内装工事が終わって、1968(昭和43)年9月15日、ついに「ニューヨーク禅堂正法寺」がオープンした。榮道師がニューヨークに降り立ってから、わずか3年9カ月の事だった。

 オープニング・セレモニーに出席した人々は皆、"Miracle!(奇跡だ)" と言ってくれたが、榮道師は奇跡とは思えなかった。「何ものかがして御座る」という、疑う余地のない流れなのだ、という確信があった。

■7.カールソン氏の突然の死■

 セレモニーの数日後、カールソン夫人から電話がかかってきた。カールソン氏が心臓麻痺で亡くなったという。榮道師はしばし言葉を失った。まるでニューヨーク禅堂の誕生を見届けて、「自分の使命は終わった」と言わんばかりの突然の死であった。

 10月の初め、カールソン夫人からまた電話がかかってきて、「ゼロックス社の大ホールでお別れの会をするので、一言しゃべって欲しい」と言う。他に話すのはウ・タント国連事務総長、ゼロックス社社長、ニューヨーク州選出の上院議員だという。

 当日、ゼロックス社の大ホールへ行くと、3千人が入るホールが満杯になっている。前夜からほとんど寝ずに何を話そうか、考えたが、この時になっても、全然見当がついていない。

 他の3人はさすがに立派な弔辞を述べた。榮道師は壇上に上がって3千人の人を見渡してから、風呂敷の中から磐子(けいす)を取り出した。”チーン"と鳴らす鉦(かね)である。3千人の聴衆は、その音を聞いて、シーンと静まりかえった。

「皆さん、息を整え、眼を閉じてください。そして皆さんの友達であり、先輩であるチェスター・カールソン氏の面影を思い浮かべて下さい」

■8.We miss you. (寂しいよ)■

 それから、榮道師はチェットというニックネームで、故人に語りかけた。

 Chet, where are you now?
 (チェット、今どこにいるんだい?)

 この言葉で、会場が一体になったように感じられた。

We miss you. (寂しいよ)

「今はあなたの声を聞くことはできない。握手をすることもできない。笑顔を見ることもできない。」 それから、もう一度"Where are you now?" そして、”チーン"と鉦を鳴らした。

 榮道師の言葉で、チェスターを見送る会は、感動のうちに幕を閉じた。

 "Where are you now?" 人はどこから来て、どこに行くのか。しばしこの世で過ごす人生の意味は何なのか。チェスター氏自身、榮道師のアパートでの座禅の最中に、こうした問いかけを何度も心の中でしていただろう。

 彼の人生の意味は、億万長者になったことではなく、3千人もの人々から、"We miss you.”との思いを持たれたことにあるのではないか。

■9.大事なのは、彼らと一緒に座ること■

 一月ほどして、またカールソン夫人から電話がかかってきた。夫の莫大な財産の一部を寄付するという。榮道師は辞退したが、「どうしても」と言って、引き下がらない。「これで人種や男女や宗教の違いを問わず、誰でもがいつでも来て座禅の修業のできる場所を作って下さい」と頼み込まれた。

 榮道師はこの寄付を使って、ニューヨークから数時間の州有林の中にある170万坪の土地を買い、本格的な禅堂と百人ほどが泊まれる施設を作った。大菩薩禅堂金剛寺と命名した。

 榮道師が単身、ニューヨークに降り立って、すでに40年以上が経った。当初は「このアメリカに、座禅の味と仏法のありがたさを広めていくんだ」という気持ちだったが、本当に大事なことはそれではなかった。

 大事なのは、彼らと一緒に座ること、共に食事をとること、共に行動することだと気づいたのです。

 だから今でも、一緒に座禅をし、一緒に作務(JOG注:さむ、掃除などの作業)をしています。そして大自然の中で人間らしく息を吐き、息を吸う生活をさせていただいています。[1,p220]

 限られた人生の中で、たまたま出合った縁を大切に過ごして一緒の時間を過ごして行く。そこに人生の意味があるのだろう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)  

1. 嶋野榮道『愛語の力 ― 禅僧ひとりニューヨークに立つ』★★★、 致知出版社、H20

 


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