JOG(1378) 新紙幣に登場した3人の偉人の共通点 ~ 皇室の「民安かれ」の祈りの後押し
渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎は、皇室の「民安かれ」の祈りに後押しされていた。
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■■■ 新紙幣で登場した3偉人の感想文祭り開始 ■■■
・400字程度の感想文募集
・10人に一人、優秀賞として表彰状と図書カード贈呈
・募集期間 令和6年7月1日~令和7年6月30日
・応募資格 国籍、居住国問わず25歳以下なら誰でも。ただし感想文は日本語または英語に限る。
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■1.皇后の涙
新しい5千円札の肖像画として登場した津田梅子は、日本で最初の5人の女子留学生の一人ですが、出発前に皇后(明治天皇のお后、昭憲皇太后)に拝謁した時に、こんなエピソードが伝えられています。[出雲井]
並んでご挨拶した娘たちに、皇后は「まあ! こないに年端もいかぬ子らが・・・」と小さなお声で嘆じられ、しばらくお言葉がありませんでした。親ははどれほど手離しがたいことか、娘たちは厳しい決心がいったことかと、思いやられているお心が側にいる人には痛いほどに伝わりました。
しばらくは日本の秋にも巡りあえぬであろうからとの思召しで、皇后は皇居内の御苑の紅葉狩りに5人を連れて行かれました。
燃えるような紅葉を見ながら、12歳の捨松は、このまま逃げ出して木陰に隠れてしまえば、異国へなぞ行かずに済むかも、との思いに浸っていました。するとその思いを見透かしたかのように皇后が「これ、捨松とやらと言いましたな」と言われて、はっと我に返った捨松の肩にお手をかけ、「母恋しゅうて心ゆらいでも、せんない年でありましょに」。
その御目には、今にもこぼれ落ちそうな涙が湛えられています。皇后様が、今まで会った誰よりも親身に泣いて下さっている、そう思うと、捨松の胸は張り裂けて、「わあっ」と声も涙もとまらなくなりました。他の4人も大声で泣きました。
付き添いのデ・ロング米国駐日公使夫人は、後にこう語っています。
その言葉通り、少女たちを受け入れたアメリカの各家庭は、深い愛情を込めて彼女らを育ててくれました。
■2.皇后の思し召しの実現した梅子の志
9歳だった津田梅子も、この時の光景はよく覚えていたことでしょう。皇后陛下は、こうも5人に語られていました。
明治天皇は教育こそが日本の独立を守り、世界に伍していく国づくりの原動力という強い思いを持たれていましたが、皇后はその思し召しに沿って、女子教育確立のために華族女学校(現・学習院女子中・高等科)、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立を後押しされました。
JOG(1361)で述べたように、帰国後の梅子は「日本の女子高等教育の確立」こそ自分の使命だと考え、女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立しましたが、これも皇后の思し召しの一端を実現したものと言えましょう。
その梅子の志を、現在の歴史教育ではどう教えているのでしょうか? たとえば、中学歴史教科書でトップシェアを持つ、東京書籍版では、津田梅子についての記述は、一緒に渡航した岩倉使節団の説明の後に、5人の女子留学生の写真を掲示し、
と説明しています。皇后の涙に号泣し、また「日本の女子の高等教育の確立」を志した心境にもまったく触れられず、単なる履歴書の一節のような説明です。これでは中学生たちも人間としての梅子に共感したり、敬愛することはできるはずもありません。
■3.渋沢栄一の志
同様に新しい1万円札の肖像として、とりあげられた渋沢栄一の志については、JOG(1377)でこんなエピソードを取り上げました。昭和5(1930)年、死の一年前、90歳の栄一は、面会謝絶の状態にも関わらず、全国方面委員(今日の民生委員)の訴えに耳を傾け、20万人の貧窮民を救うために、自ら大蔵大臣と内務大臣に陳情にいった、という逸話です。
もう一つ、興味深いエピソードを紹介しましょう。明治37(1904)年、64歳の渋沢は肺炎を起こし、高熱を発して、流動食をやっとのことで飲み込む日々が続いていました。抗生物質のなかった当時、致死率の高かった肺壊疽(はいえそ)が進行している事も判明しました。死を覚悟した栄一は、遺言を残し、栄一危篤の報に、見舞いの客も訪れました。[北]
そんな中で、明治天皇から見舞いの菓子折が下賜されたのです。栄一は瀕死の床にありながら、感激を歌に詠みました。
伏せ屋もるうめきの声の思いきや雲の上まで聞こゆべしとは
(みすぼらしい家から漏れる呻(うめ)き声が天皇にまで届いてしまうとは)
ここから栄一は急に快方に向かい、この後、20数年も公益事業などに尽力するのです。明治天皇は世のため人のために大車輪の活躍をする栄一を頼りに思われていたのです。そのお気持ちを、下賜された菓子折に察した栄一は、自分にはまだまだ仕事があると改めて震い立ったでしょう。「病は気から」と言います。明治天皇の大御心を拝して、栄一は急に元気を取り戻したのです。
東京書籍の歴史教科書は、渋沢栄一については、小さなコラムでこう紹介しています。
栄一を「日本資本主義の父」と呼ぶことは、その一面だけを表した表現に過ぎません。現に営利企業よりも多い公益企業を残しています。その志は多くの近代企業を興して、民を豊かにし、国を富強にするためでした。その志こそ、中学生に学んで欲しい処です。
■4.北里柴三郎の苦衷
新紙幣で登場したもう一人の人物、北里柴三郎についても、その志が分かるエピソードを紹介しましょう。北里は細菌学の確立者ロベルト・コッホ博士のもとで、破傷風菌の純粋培養などに成功して、世界的な名声を得ました。ケンブリッジ大学から、細菌学研究所を設置するので、その所長として来て欲しい、という要請を受けましたが、それを断るのに、次のような返事を書いています。[山崎]
天皇の「恩命」、「御めぐみ」とは以下のような事情です。ベルリン大学のコッホの許に留学して4年目の1889(明治22)年、柴三郎はコッホとともに、結核の特効薬ツベルクリンの開発に取り組んでいました。しかし、留学期限は翌年末で切れます。柴三郎は1年間の留学延長願いを内務省に送っていましたが、梨のつぶてでした。国の財政事情が厳しく、内務省でも予算がつかなかったのです。
コッホもなんとか残れないか、と言っていましたが、柴三郎は「無理でしょう」と答えました。そもそも留学期間の延長はありえないことです。それがすでにコッホの熱心な口利きで、一度延長されていました。いくら何でも二度目の延長は無理だろうと、と柴三郎はあきらめていたのです。
■5.柴三郎の感激
そこに明治天皇から下賜金千円が支給されて、延長が許されることになったのです。巡査の初任給が8円の頃です。現在の貨幣価値で言えば、3千万円ほどにもなりましょう。コッホが日本公使館を尋ねて延長を懇請し、それを受けた内務省衛生局長・長与専斎がツテを辿って、宮内大臣から明治天皇に恩賜金御下賜を請願してくれたのです。
そこで結核を撲滅することは国家の緊急課題であるとして、天皇から特別の御下賜金が下されました。「日本国民の結核に罹るものを治療せよとの恩命」とは、この事です。柴三郎は天皇の国民を思われる御心に感激して、男泣きに泣きました。こういう思いから、ケンブリッジ大学からの誘いなど乗れるわけもありませんでした。
こうした柴三郎を、東書版歴史教科書は、次のように名前を挙げているだけです。
その横に「自然科学の発達」という8行の表があり、その一行にこうあります。
これまた経歴書的記述で、北里柴三郎がどんな思いで、どのような志を抱いて、研究に励んだのか、まったく伝わりません。
■6.国を思われる天皇の祈りの実現のため
新紙幣に登場した3人は国家のために、社会事業、女子教育、医療とそれぞれの分野で偉大な業績をあげたのですが、いずれもその背後から皇室の後押しがあったことが共通点です。この点は、日本の国民と国家との関係を考える上で、非常に重要な鍵です。
たとえば、北里柴三郎がケンブリッジ大学の破格の申し出を断って、日本に帰国して国民を結核から救おうとした事は、確かに彼の愛国心からですが、その愛国心の中核は、天皇から自分は期待されているのだ、という感激なのです。
国を愛するといっても、その国は姿形の見えない抽象的な概念です。人間の心は抽象的な概念では動きません。それに対して、明治天皇とは具体的なお心をお持ちの一人の人間です。その明治天皇が国民を救おうと自分に期待して御下賜金を下された、ということに、柴三郎は感激したのです。
同様に、梅子ら5人の女子留学生は、自分たちのために泣いて下さっている皇后の思いに号泣しました。渋沢栄一は、自分のために菓子折を下賜される天皇の御心を察して、まだまだ働かなければならないと思ったのでしょう。
こう考えると、国家の中心に皇室を戴き、代々の皇室が「民安かれ」の祈りを伝えてこられた国の姿には、独特の意義があります。どこの国でも国家のために尽くす愛国者はいますが、我が国においては、抽象的な国のため、ではなく、国民を思われる天皇という具体的な人間の祈りに後押しされ、その祈りを自分も助けたい、と思うことで、心の奥底からの気概が生まれてくるのです。
■7.「日本国民としての自覚、我が国の歴史に対する愛情」
「人の心を動かすのは、概念ではなく人物の思い」という原則が分かると、『学習指導要領・地理歴史編』で目標とされている「日本国民としての自覚、我が国の歴史に対する愛情」に至る道筋も見えてきます。日本国や日本史を概念知識として教え込むことに止まっていては、「自覚」や「愛情」には至りません。
国家や歴史という概念用語を、家族や郷里の人々、自分を今まで育ててくれた人々、さらには国のために尽くした先人たちの思いで肉付けして始めて、我々は「歴史に対する愛情」を抱き、「日本国民としての自覚」が生まれるのです。
「1890 北里柴三郎、破傷風の血清療法を発見」というような知識の詰め込みでは、子供たちの心に愛情と自覚は生まれません。「天皇が国民を結核から救うために北里柴三郎に異例の御下賜金を下し、北里はケンブリッジからの誘いを断って帰国した」という物語に感激して、子供たちはそういう国への愛情と、自分も明治天皇や北里柴三郎と同胞だという国民としての自覚が生まれてくるのです。
たとえば、歴史人物学習館は、歴史人物に関するお勧めネット教材を小中学生に視聴して貰い、感想文を書いて貰っていますが、今まで、津田梅子と渋沢栄一については、以下の2編が表彰されています。
こうした歴史人物の思いと志を知る歴史人物学習でこそ、子供たちの「日本国民としての自覚、我が国の歴史に対する愛情」が生まれてくるのです。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・出雲井晶『エピソードでつづる 昭憲皇太后』★★★、錦正社、H13
・北康利『乃公出でずんば 渋沢栄一伝』★★★、KADOKAWA、R03
・明治神宮ホームページ『華族女学校の創設』
・山崎光男『北里柴三郎(上)-雷と呼ばれた男 上下』★★★、中公文庫、R01
■おたより
■伊勢雅臣より
渋沢翁なら、「国家予算などに頼らずとも、国民多数の寄付で日本国古来の工藝や民藝を支えよう」と、旗を振ったでしょう。そういう気持ちを国民皆が持つ事で、国が支えられる。そういう国を渋沢翁は目指したのではないかと思います。そのためにこそ、「日本国の歴史を詳らかに學ぶ体制づくり」が必要ですね。
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