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JOG(366) 昭和の哲人・安岡正篤
「終戦の詔書」と「平成」の元号に込められた祈りとは。
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■1.一国の首相が揶揄(やゆ)された■
昭和47(1972)年9月、首相就任間もない田中角栄は訪中し、一挙に日中国交樹立を目指した。周恩来首相から「台湾との断交について、発表の時期を明示せよ」と迫られた田中は、「とくかく私を信用してまかしてほしい」と粘った。
周恩来は「ならば君を信じよう」と言い、「言必信行必果」(言必ず信、行必ず果)と書いた色紙を田中に贈った。帰国後、マスコミは「これこそ日中友好のきずな」と大いに持ち上げた。
しかし、これを聞いて一人嘆いた人物がいた。「なんと情けないことか!一国の首相が揶揄(やゆ)されたとは。」 この言葉は、論語から採られたもので「言うことは必ず偽りがなく、行うことは潔い」人物は、まあ士のうちに入れてもいいが、こちこちの「路傍の石のような小人よ」と続く。
「先生なら、どうされましたか?」と聞かれて、こう答えた。
わたしならば、即座に突っ返したね。そうすれば周恩来は、この人物はあなどれないと悟って、こう言ったはずです。「これはあなたへの言葉でなく、私周恩来への箴言(いましめ)として書いたものです。こんなわたしですが、末長くおつき合い願いたいものです。」一国の外交に携わる者は、相手に一目置かれないといけないね。[1,p77]
中国側から揶揄された形で始まった「日中友好」は、日本 側では幻想から幻滅へと変わっていく。[a]
この人物こそ、歴代宰相や財界首脳の指南役と言われた安岡正篤であった。吉田茂、岸信介、佐藤栄作、大平正芳、中曽根康弘と、戦後の歴代宰相が安岡を師と仰いで意見を聞いたのに対して、田中は敬して遠ざけた。安岡は田中がマスコミに「今太閤」として持て囃されて登場した時にも、「田中角栄という人は自民党随一の腕利きで、侍大将としてはよいが、もっと本格的な学問をしなければ」「高転びに転ぶのではないか」と非常に心配していた。その後、果たして田中は金脈問題で辞任に追い込まれることになる。
■2.「たいへんな人物が見つかった。」■
安岡は大正8(1919)年に、東京帝国大学法学部政治学科に入学した。時あたかも大正デモクラシーの時代であり、安岡も西洋近代の社会科学、宗教、哲学、文学などの本をむさぼり読んだが、心の奥まで響くものが感じられず、少年の頃から親しんだ東洋先哲の書に戻っていった。
東大卒業と共に出版した「王陽明研究」は、一躍注目を集めた。当時の外交界の重鎮で、昭和天皇の信任の厚かった牧野伸顕を訪問したとき、牧野は安岡の余りの若さに一瞬目を疑った。はじめは5分か10分程度と思って話を聞いていたが、話が「天子論」におよぶと、次第に襟を正して話に聞き入った。秘書が何度も名刺を持ってきては、訪問客が来たことを知らせる。安岡があまりに長居をしては失礼になると思い、「いずれ後日に」と腰を浮かせたが、「大事なことですから、続けなさい」と牧野に促された。控え室で待っていた外務大臣は、あきらめて帰ってしまった。
これ以降、牧野は安岡の学識を高く評価し、何かにつけて意見を聞くようになる。牧野の娘婿・吉田茂も自分より20歳も若い安岡を「老先生」と呼び、その意見を重んじた。この吉田を通じて、安岡は戦後の歴代宰相の指南役となっていった。
牧野伸顕は親英米派として二二六事件で襲われたが、その首謀者として死刑となった国家社会主義者・北一輝も安岡と出会った時、「こんな人物にはいまだかつて会ったことはない。安岡こそは王者の師だ」と驚嘆し、満洲を旅行していた同志の大川周明に「たいへんな人物が見つかった。すぐ帰ってこい」と電報を送ったほどである。
安岡はしばらくこれらの革命家たちとつきあっていたが、その人となりを知るに及んで、「こういう人々が維新や革命をやり、政権を握ったところで、果たして世の中はよくなるのであろうか。」と考えて、袂を分かった。「迂遠なようだが、古今の聖賢に学び、着実に人物をつくっていくに如くはない」と研究と人材育成に邁進していった。
■3.地道な人材育成■
昭和2年4月、安岡は金鶏園と称されていた酒井忠正伯爵の邸内に「金鶏学院」を設立した。酒井伯爵は安岡に一目会うなり、その学問に敬服し、これを広く国民教化のために役立てるべきと、後援してきた人物である。各県知事の推薦などにより集まった1期生20名の青年たちは、全寮制で寝起きを共にしながら、安岡の指導のもと学問に打ち込んだ。
毎月1日と15日には公開講座が開かれ、90畳以上もある大講堂に300百名余りの聴衆が集まった。その中には陸海軍の大将中将や警視総監、そして内閣調査局長・吉田茂など、そうそうたる面々が顔を揃えた。咳払いさえない静まりかえった大講堂に、講義する安岡の声だけが響き渡った。
金鶏学院が軌道に乗ると、安岡は昭和5年に日本農士学校を設立した。地方において農業にいそしみながら学問をする篤農や郷先生を作る自治主義が日本振興策である、という考えからであった。その背景には安岡の子供時代に近くの神社の神主さんやお寺のお坊さんから漢文や儒学を教わった、という体験があった。江戸時代からこうした郷先生が各地にいたからこそ、日本の教育レベルは高く、明治時代に西洋文明が流入してもすぐに消化して、近代化に邁進できたのである。
昭和8年には、金鶏学院の学問と教育を高く評価された昭和天皇から内幣金が下賜され、それを記念して農士学校に恩賜文庫が設けられた。
■4.真の王道政治とは■
同時に、安岡は朝鮮や満洲・中国にもしばしば旅行して、講演をしたり、各地の識者と懇談した。朝鮮総督・宇垣一成に招かれて全道知事に話をする一方では、反日独立運動の闘士・寉麟と肝胆相照らす仲になったりした。
五族協和とか、王道楽土と言われながらも、現地の日本人政治家や役人、商人の堕落、現地人蔑視の話を聴き、安岡は次第に日本の前途に対する心配を抱いていった。そこで元の時代の政治家・張養浩が司法・立法・行政に携わる者への具体的な提言を記した「三事忠告」を翻訳・出版した。この本も大きな反響を呼び、参謀本部からも現地の将校や有志に読ませたいので、軍で増刷させて欲しいとの依頼まで出た。
安岡はこの本をテキストにしながら、「役人は規則を厳正にする余り、法規違反者にばかり囚われてはいけない。温情を旨とし、人々に親しみながら、困っていること、苦しんでいることを聞き、助けてやって欲しい」と説いて回った。
安岡が各地を回ると、この本への感謝がたびたび寄せられた。済南の特務機関の堀尾中尉は、この書一冊で現地の人々から大変な尊敬と信頼を勝ち得た、と語った。しかし、中国共産党や蒋介石に煽動された反日抗日運動と、日本の大陸進攻の狭間で、安岡の心配は現実のものとなっていった。
■5.空襲下の講義■
昭和20年5月、空襲で自宅を焼かれて金鶏学院に寝泊まりするようになった安岡は、自ら毎朝の講義を行うようになった。空襲のサイレンがなっても、がんとして動かず講義を続けた。
8月13日の講義では、春秋左氏伝の「国の将(まさ)に興らんとするや明神これに降る」の一節を引いて、こう語った。
神に対する深い自覚があったならば、日本はこうならなかった。神を汚すこと、近代日本の指導者たちほど、甚だしいものはなかった。
「神に対する深い自覚」の意味する所は、明治天皇の次の御歌から推察できるだろう。
神祇
かみかぜの伊勢の宮居を拝みての後こそきかめ朝まつりごと
毎朝、はるか伊勢神宮を拝んで心を澄ませ、その無私の心をもって、日々の政治上の報告を聞いたという御歌である。安岡は、近代日本の指導者は、イデオロギーや私利私欲に囚われて、神が人民の安寧を願う心を持って、それを政治において実現しよう、という使命感を失っていた、と言うのであろう。
■6.終戦の詔書に込められた思い■
8月13日夜、内閣書記官が金鶏学院に自動車で乗りつけて、数枚の原稿を持参した。「終戦の詔書」案である。安岡は原稿に朱を入れて、推敲を行った。
翌14日午前中の御前会議で終戦の御聖断が下され、その午後、総理大臣・鈴木貫太郎と話をしている所に、書記官長が詔書の作成で困っているから、すぐに来て欲しい、と頼まれた。行ってみると、書記官長・迫水久常が机に突っ伏して、男泣きに泣いている。安岡は「おい、しっかりしろ」と肩を叩いた。
安岡は、詔書に「万世ノタメニ太平ヲ開カムト欲ス」という一節を入れた。これは宋の儒学者・張横渠(ちょうおうきょ)の「天地のために心を立つ」から始まる有名な格言の一部で、「天は何十億年という歳月をかけて天地、植物、動物をつくり、最後に人間を作った。その人間は五十万年もかけて、精神や理想、文化、文明を発達させてきた。つまり、天地が発して人間の心になったのだ。その天地の心を自らの心として、万世のために太平を実現しよう」という意味である。まさに「神に対する深い自覚」と通ずるものがある。
また、その前には「義命ノ存スル所」という言葉を入れた。義命とは大義名分よりもはるかに重いもので道徳の至上命令に当たる。内心に深く耳を傾ければ、もはや戦争はやめるべきだ、という至上命令が聞こえてくる、というのである。ここにも天や神の声を聴くという姿勢が感じられる。
後に、安岡の「万世ノタメニ太平ヲ開カムト欲ス」と「義命ノ存スル所」という添削の意図を聞かれた昭和天皇は「我が意を得たり」という御表情で、深く首肯されたという。
しかし、後の閣議では「義命ノ存スル所」は分かりにくいという意見が出て「時運ノ赴ク所」に変えられてしまった。これでは、戦況が思わしくないから止める、という「成り行きまかせ」の姿勢となってしまう。後でこれを知った安岡は「国家のことは成り行き任せではいけない」と怒った。近衛文麿に代表されるような「神に対する深い自覚」もなく、「成り行き任せ」の指導者たちがもたらした結末がこの終戦であった。
■7.「本当の日本人を知った気がします」■
終戦後、安岡は占領軍司令部から国家主義の右翼思想家と誤解されて、目をつけられていた。その係官がジープで乗りつけ、「ヤスオカはいるか」と土足で上がり込んできた。安岡は常と変わらぬ応対をし、尋問にいちいち答えていくと、係官の態度が次第に変わり、「ヤスオカ」と呼び捨てにしていたのが、「ミスター・ヤスオカ」、そしてついには「プロフェッサー・ヤスオカ」と呼ぶようになった。
安岡は欧米旅行の際に垣間見たアメリカの印象から、米国民が忠誠を誓う星条旗が統合の象徴となっているように、日本の統合の象徴は万世一系の天皇であること、もし米国が日本国民の心を無視して、占領政策を誤ったら千載に禍根を残す、と諭した。
係官は「わたしは日本にやってきて、いろいろな日本人に会ったけれども、あなたのような日本人は初めてです。本当の日本人を知った気がします」と安岡に握手を求め、晴れ晴れとした顔で帰って行った。
昭和20年9月から戦犯容疑者の逮捕が始まり、安岡も覚悟をしていたが、ついに占領軍司令部の手は伸びなかった。実は逮捕者リストには入っていたのだが、これを中華民国の情報長官・王大槇(おうだいしん)からの連絡で知った蒋介石が、安岡ほどの碩学を戦犯指名するのは間違いだとアメリカを説得して、戦犯リストから外させたのであった。
■8.「民族の復興は一人ひとりが発奮するところから」■
戦後、安岡は歴代宰相の指南役を務めると共に、多くの財界人の勉強会に呼ばれては話をした。安岡の高弟とも言うべき財界人の一人に住友生命の名誉会長まで務めた新井正明がいる。新井は昭和14年、ノモンハンでのソ連軍との戦闘で片足を失った。
戦地から帰り、陸軍病院で悶々としていたところ、安岡の本で、「どうにもならぬことを忘れるのは幸福だ。ありがたいことにそれが造化の妙だ」と説いている一節に「まったく、そうだ。」と共感した。「幸いにいのちだけは助かった。後は残されたものを最大限駆使して生きていこう」と決心した。
退院してから住友生命に復職したものの、足が悪いため地味な仕事に回されたが、安岡の書物に励まされて、生き生きと働き、ついに住友生命の社長にまで登りつめた。関西の財界人では「無似会」という勉強会を作り、毎月、安岡を呼んで話を聞いたが、住友電気工業社長で、後に国鉄民営化に貢献した亀井正夫もそこで学んだ一人である。[b]
「迂遠なようだけれども、民族の復興は一人ひとりが発奮するところからしか始まらない。だからこうした勉強会をコツコツ積み上げていくしかない。」と、安岡は語っている。安岡に学んだ財界人たちは、こうした場で自らの心根を鍛えつつ、戦後の経済復興にも大きな貢献をなしていった。
■9.「平成」に込められた理想■
昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御され、小渕恵三・官房長官が新しい元号が「平成」であることを発表した。元号の考案者は公表されていないが、様々な証拠から、その2年前に亡くなっていた安岡が考案したというのは間違いないようだ。
「平成」の出典は「史記」の「内平かに外成る」、および「書経」の「地平らかに天成る」から採られたとされているが、後者は、そのあとに「万世永く頼る」という言葉がある。安岡が終戦の詔書に入れた「万世のために太平を開く」につながる言葉である。
天が何十億年という歳月をかけて、最後に人間を作った。その人間が天の心を自らのものとして、この地上を平らかにできれば、それは天の目指す所が「成った」ということになる。そのような天・地・人の完成としての「太平」を万世に開くことが、終戦の詔書と平成の元号に込められた祈りなのだろう。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(312) 「日中国交正常化」~ 幻想から幻滅へそもそものボタンの掛け違えは、田中角栄の「日中国交正常 化」での「異常」な交渉にあった。
【リンク工事中】
b. JOG(250) 亀井正夫~「おまけの人生」で国鉄改革原爆攻撃を奇跡的に生き延びた亀井正夫は「おまけの人生」 をかけて国鉄改革に挑戦した。
【リンク工事中】
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 神渡良平、「宰相の指導者 哲人安岡正篤の世界」★★★、 講談社+α文庫、H14
2. 神渡良平、「安岡正篤 人生を拓く」★★★、講談社+α新書、H13
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■前号「昭和の哲人・安岡正篤」について
翔華さんより
私は、大学では中国文学科におりましたので、中国哲学・思想の授業も受けましたが、なぜか物足りなく感じておりました。
しかし、ある掲示板の書き込みから、安岡先生の名前を知り、その著書を読み、これは今までのものとは違うと衝撃を受けました。それらの本は安岡先生の講演、講義をまとめたものですが、まるで安岡先生の声が聞こえてくるような感動でした。大学の教授の無味乾燥な授業と違い、古人への尊敬、憧れ、そして情熱、気迫が伝わってきました。この人は本当に古代から脈々と受け継がれてきた、本当の学問を理解し、実践し、体得して来た人なんだと感じました。
私自身は、ただいま無職浪人ではありますが、安岡先生の教えを実践し、自分自身、そして日本のためによい人材になりたいと努力するつもりです。
さいとうさんより
ああ、やはりこの方が、とうとう登場なされたかと、何ともいえぬ感慨に浸りました。実は私も、安岡先生を私淑し、そのほとんどの書籍を座右においては愛読して参りました。
この戦後という時代・昭和という時代に、もし先生がおられなかったと想うと背筋が凍ります。もちろん先生一人のお陰だけではありませんが、私は、もし先生が不在であったならば、一体日本は、どんなことになってしまっただろうかとつくづく感じます。
一方では、政治家や実際家の師として、また一方では、司馬光が指摘する「一切の根本であり、国家百年の安寧の基である、人心・風俗の培養」に、懸命に取組んだ安岡先生に、深く敬意をあらわしたいと思います。
そして、安岡先生の軌跡を深く理解できてはじめて、私たちが第一義に努めなければならないことも、あらゆる問題を救う根本となるものも、明確に意識できるのでなないかと思います。
正之さんより
1972年9月、国交正常化を狙って訪中した田中首相に対して周恩来は「論語」から引用した文言の入った色紙を贈り、田中首相を揶揄したことが貴誌に紹介されています。
更に、毛沢東は「楚辞」を田中首相に贈り、田中首相は結構な古典を頂いたと喜んだそうですが、安岡先生はこれを聞いて、激怒されたそうです。数多くの中国古典の中から、何故に毛沢東は「楚辞」を選んだのか?
「楚辞」には、春秋戦国時代、楚の国の悲劇の政治家・詩人:屈原の詩及び屈原の作風にならった詩人の作品が収められています。屈原は春秋戦国時代の七雄の一つだった楚の国の政治家兼詩人でした。彼は楚の国の外交に活躍し、力をつけてきた秦への対抗策を王に進言しますが、讒言(ざんげん←秦の謀略の可能性もある)により追放されます。そうして放浪の果てに汨羅(べきら)という河に身を投じて自殺するという悲劇の政治家でした。また屈原の進言を取り入れなかった楚は秦に滅ぼされてしまいます。
毛沢東は、「楚辞」に託して、大国中国におとなしく従わないと楚のように日本は滅びてしまいますよ!という人を馬鹿にした含意を田中首相に贈ったと解釈が出来ます。安岡先生の激怒はその「含意」に対してであったと、私は考えています。
米国は対ソ外交戦略上、中国カードを手にするというしたたかな外交を進めていましたから、台湾との付き合いは毅然として残しました。それに反して日本は全く中国のペースで仕切られ、台湾とは国交を断絶しました。その後今日に至る、対中国位負け外交は、田中首相の国家戦略の欠如と、中国の強かさを読まなかった彼の甘さに端を発しているという見方が出来ます。その意味で田中首相は日本の前途を誤らした宰相として汚名を歴史に留めることになりましょう。
■ 編集長・伊勢雅臣より
日本の未来を拓くためにも、本物の学問が必要ですね。
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