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JOG(522) 岡田資中将の「法戦」
米軍の日本空襲は戦争犯罪であることを、岡田中将は自らの戦犯裁判で認めさせた。
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■1.「私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ」■
戦争末期に米軍はB29によって本土各地を爆撃したが、そ の中には日本軍によって撃墜され、パラシュート降下した搭乗員が少なからずいた。岡田資(たすく)元陸軍中将は、東海軍管区司令官として降下搭乗員38名を「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」として処刑した。
連合軍側はこれを「捕虜の不法処刑」とし、昭和23(1948)年1月、岡田中将以下の責任を問う裁判が、横浜の連合軍軍事裁判所において始まった。
岡田中将は、「米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、わが覚悟において強烈ならば、勝ち抜き得るものである」と判断した。そしてこの裁判を「法戦」と称した。武力では負けても、正義を賭けた法の上での戦いを続ける、という覚悟である。
「法戦は身の防衛に非ず、部下の為也、軍の最後を飾らんことを」。岡田中将は処刑の判断責任はすべて自分にあるとして、一緒に起訴された19名の部下たちを救おうとした。さらに、搭乗員の処刑は「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」への処置として正当であったことを立証して「軍の最後を飾らん」ことを願ったのである。岡田中将は、次のように家族への手紙に認めている。
私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ、之は米軍にても都合のある事ゆゑ。[1,p151]
■2.フェザーストン博士■
法戦に立ち向かう岡田中将に、力強い味方が現れた。主任弁護人を務めるフェザーストン法学博士であった。博士は50歳近い、恰幅の良い巨躯をダブルの背広に包み、穏やかな笑顔で話す紳士だった。博士は弁護人として、敵味方とは無関係に、被告を弁護することに全力を傾けた。その公正な姿勢は日本人に深い感銘を与えた。
フェザーストン博士は、まず米軍の爆撃が民間人に対する無差別攻撃として戦争犯罪にあたることを立証しようとした。
検察側は、名古屋の軍需産業の70パーセントは市内に散在する下請け工場であり、名古屋市の爆撃はそれらに対する正当な攻撃で、民間人への無差別攻撃には当たらない、と主張した。
フェザーストン博士は「証拠無しにものを言うのはやめて貰いたい」として、当時の軍需管理局の管理者二人を呼んで、証言をさせた。二人は、下請け工場は住宅地区とは別の工場地帯にあったこと、市内の家内工業では軍需生産は一切行われていなかったことを明らかにした。
■3.逃げまどう女子どもたちを狙った米機■
次いでフェザーストン博士は、空襲の被害者を何人も法廷に呼んで、それが無差別攻撃だった事を明らかにした。そのうちの一人に神戸市で孤児院の院長をしていた水谷愛子さんがいた。水谷さんは、昭和20(1945)年3月17日夜の神戸空襲の模様を次のように語った。
夜11時頃に警戒警報が鳴り、照明弾が落ちて、あたりは真昼のように明るくなった。他の機が焼夷弾を落とし、孤児院の建物にも火がついた。子どもたちを連れて、水谷さんは近くの親和女学院に避難した。
しかし山から降りて来た人が、「ここ、危ないで」と言います。そこで子どもたちを下の宇治川の宇治橋に連れて行きました。みなを橋の下に入れましたが、人で一杯です。
・・・焼夷弾がまたあたりに落ち始め、火を消すのに大わらわでした。幾組かの母子が焼死しました。[1,p100]
照明弾で真昼のように明るくなれば、逃げまどう子どもたちの姿もはっきり見えたはずである。米機が女子どもと知りつつ、焼夷弾を落としたのは明らかだった。
日本人弁護人の記録によれば、この時、法廷は「しーん」と静まりかえったらしい。
■4.大量殺戮を狙う爆撃の残虐性■
フェザーストン博士は、無差別爆撃について、岡田中将の意見を聞いた。中将は、軍人らしく爆撃の具体的な方法を詳しく論じた。
まず爆撃予定地を包囲的に爆撃して炎上させ、それからさらに幾つかの爆撃地区に分割し、住民がそこの地区から逃げ出さないように、焼夷弾、小型爆弾、機銃掃射をまぜて全員殺戮の方法をとった。その残虐性を、岡田中将は指摘した。
この方法は、昭和20(1945)年3月10日、東京の江東地区で行われ、一晩で10万人近い死者を出した。名古屋市でも同じ方法がとられ、5月14日の最大規模の爆撃では、市の北部80パーセントが焼失し、死傷者948名、全焼2万3千余軒、罹災者は6万5千人近くに及んでいる。
フェザーストン博士は、岡田中将への尋問で、こう聞いた。
問: すると搭乗員は戦犯容疑者になりますが、無差別爆撃の違法性について、どうお考えですか。
答: 彼等がどんな命令を受けていたか、私にわかるわけがありません。しかし彼等は事実上無差別爆撃を行ったのであるから、その行為において、非合法である。
問: 彼等を戦犯容疑者として扱ったことについて、何か言うことはありませんか。
答: 降下搭乗員を捕虜として扱わず、戦犯容疑者として扱うのは、上司の示達です。そして私自身爆撃の実情を見て、正しいと信じました。
■5.脅迫の宣伝ビラ■
岡田中将は、米空軍がその非人道性を自覚しながら爆撃を行っていた証拠として、米軍が投下した宣伝ビラを挙げた。検事との間で次のような尋問が展開された。
問: 証人(岡田中将)は・・・航空機がばらまいた宣伝ビラのことを言った。これは日本国民を脅かすためだと言うが、これから始まる爆撃のきびしさの警告ではないのか。
答: ・・・ビラのあるものには、焔を吹く家や、子供が右往左往して親を捜し求める絵がかいてあった。「こわければ戦争をやめろ」と文句がついていた。ほかのものには、もっと口汚い諷刺が書いてあった。これは避難警告ではなく脅迫である。
問: このビラを運んだ搭乗員が事実上、戦争犯罪を犯したと言ったが、戦意喪失をくわだてたのが戦争犯罪か。
答: そうではない。このビラを運んだ搭乗員、もしくはサイパンの基地で、それを読んだ者も、当時の日本への爆撃方法が、非人道的であることを自覚していただろう、という意味だ。
問: 搭乗員はアメリカ空軍の命令によって、それを日本で撒いたとは思わないか。搭乗員が自分でビラを作って撒いたとでも思ったのか。
■6.「人道に反するのを自覚していたかどうか」■
検事は、爆撃が非人道・非合法であった事については、もはや争うことを諦めてしまったようだ。しかし、その責任は無差別爆撃を命令したアメリカ空軍にあり、実行した搭乗員にはない、その搭乗員を戦争犯罪者として処刑したのは不法であるとする論法をとった。この論法を岡田中将は、次のように一蹴した。
答: ビラ撒きは、最初のB29爆撃と同時にはじまっていた。誰がビラを刷ったか、問題ではない。その絵に描かれていることが、人道に反するのを自覚していたかどうかということである。そして事実、その行為を犯した。問題は爆撃を実行したということだ。
搭乗員も無差別爆撃の残虐性、非人道性を自覚しながら、実行したのなら、「単に命令に従っただけだから無罪」とは言えなくなる。
無差別爆撃が戦争犯罪であると追求する岡田中将と、命令を実行しただけの搭乗員は無罪だと弁護する検事の論戦は、あたかも原告と被告の立場が逆転したような趣となった。
こうした尋問を通じて、米空軍が無差別爆撃という戦争犯罪を犯したのだ、という事実は法廷の前で明らかにされていった。岡田中将の法戦は勝ちつつあった。
岡田中将の法戦には、もう一つの目的があった。部下たちを救うことである。処刑の命令を誰が出したか、が問題になった時、フェザーストン博士は岡田中将にこう尋問した。
問: 6月28日頃、11人の搭乗員が略式手続きで処刑された時、あなたが命令を出した憶えがありますか。
答: 覚えています。
フェザーストン博士は「命令書か、口頭か」と問い、中将が「口頭です」と答えると、さらに「その時、使った言葉を覚えていますか」と聞いた。ここではっきり「処刑を命じた」と答えられては、中将の責任は逃れられなくなる。弁護人としては、曖昧な答えを期待していた。ところが、岡田中将はこう断言した。
私は大西(大佐)に言った。(略式手続きを取るという大西大佐の)説明はよくわかった。処刑するよりしようがないようだ。処刑しろ。いま思い出しました。「なるべく早く」という言葉を使った、と思う。[1,p130]
また処刑は、軍刀による斬首で行われた。それを立案した伊藤少佐と、その実行を命じた米丸副官を救うべく、岡田中将はこう弁護した。
私は職務上、結論だけを命ずる。実行の具体的手段は、部下が考案する慣習です。従って、伊藤ケースにおける軍刀使用も伊藤法務少佐が立案し、米丸副官が命じ、ということになる。・・・従って、軍刀使用の命令が米丸から出たにしても、その実質において司令官が言いつけたのと同じである。
こうした態度から、岡田中将がすべての責任を取ろうとしていることが、誰の目にも明らかになってきた。
■8.法廷への感謝■
部下をかばうために、すべての責任を負ってしまう岡田中将の態度は、検察側の心も動かしていた。中将の尋問の終わりに、次のような質問をして、刑を軽減する最後のチャンスを与えた。
問: さて6月26日に伊藤少佐が(調書を持って)あなたの部屋に来たときに、搭乗員が有罪で、死刑に処すべきだ、とのヒントを出したのはどっちですか。伊藤があなたからヒントを得たか、あなたが伊藤からヒントを得たか。
答: ヒントは誰から与えられたものではない。私が自分で考えて、自分にヒントを与えたのです。
岡田中将は検察から与えられたチャンスも返上した。そして最後に自ら発言の許可を求めた。
市ヶ谷のA級戦犯法廷においても、当横浜法廷における他のB・C級ケースにおいても、われわれはこれほど自分の感情を述べる機会を与えられなかった。米空軍の内地爆撃問題に就いては、被告から十分に言う機会が与えられなかった。この点において極めて寛大な処置を執ってくれたのは、此の法廷が初めてであると思う。・・・
日本人同胞も此の寛大なる法廷の状況を、間もなく聞くでしょう。そして感謝の気持ちを持つであろう。その感謝の気持ちは、両民族、米国を兄とし日本を弟としての心からの結合に非常なる役割をするものであると思う。[1,p178}
■9.静かな微笑■
昭和23(1948)年5月19日、判決が下された。岡田中将は死刑の判決を、頷きながら聞いた。「判決は御勝手にだ、之は米軍にても都合のある事ゆゑ」と言ったように、本国の手前、有罪判決を行い、後はケース毎に減刑処置を行う、というのが、「米軍の都合」だった。
果たして岡田中将の助命嘆願が殺到した。かつて宮付武官として仕えた秩父宮や、その他の身内や関係者ばかりでなく、フェザーストン博士や、検事、そして判決を下した5人の裁判委員のうちの2人までから嘆願書が寄せられた。岡田中将は、人々の厚意に感謝しつつも、「日本軍人らしく日本軍隊らしく終始せる」事を祈っており、情けをかけられる事を好まなかった。
一方、部下たち19名は大西大佐の終身刑から、最も軽い者でも10年の刑が宣告された。岡田中将はスガモ・プリズンで処刑を待つ間にも、「部下には罪はない、刑を軽減してほしい」との請願を続けた。結局、10年の刑を受けた13名は、翌年3月に釈放され、他の人々も大西大佐の昭和33年釈放を最後に、すべて社会復帰が許された。「部下を救う」という岡田中将の第2の目的も果たされたのである。
スガモ・プリズンでは、岡田中将は30人ほどの青年死刑囚を相手に「必ず減刑になるから」と励まし、将来の日本を背負って立つよう、自らの信仰する日蓮宗をもって教育した。
昭和24(1949)年9月15日夜10時、死刑執行のための呼び出し人が岡田中将の独房にやってきた。すべてを自分の責任と証言した中将には、減刑の余地がなかったようだ。
青年死刑囚たちは連れ出される岡田中将の姿を見て、「アッ」と声をあげた。中将は一言「君達は来なさんなよ」と言った。「閣下、後は御心配なく」の声に「うむ」。中将の静かな微笑に無限の慈悲を感じたという。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
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_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「岡田資中将の『法戦』」に寄せられたおたより
Gorillaさんより
今号をを拝見し、頭に浮かんだのは、私の母親の事でした。
私の母親は、昭和12年に現在の岩手県釜石市に産まれまし
た。母親が満8歳を迎える一月前の7月4日(及び8月9日)
に製鉄所があった釜石は、連合軍の空襲と艦砲射撃を受けまし
た。
その時、母親は家の裏山の開けた峰に居たところ、艦載機の
機銃掃射を浴びたのです。機銃弾が頭上をかすめる「ヒューン
ヒューン」という恐ろしい飛翔音は、戦後60年を過ぎた今で
も忘れられないそうです。(幸い命中せずには済みました。)
製鉄所とは数十キロも離れた住宅地の裏山、10歳にも満たな
い幼児に機銃掃射を浴びせた米軍兵は、何を想っていたのでしょ
うか。母は私に言いました。「余った弾を持って帰るのが面倒
だったんだろう。」
あの時代、間違っていたのは日本人ばかりでは無かったので
す。このような話は幾らでもあったはずです。なぜ、日本人の
行為のみが非難され、戦勝国の蛮行には目をつむるのでしょう
か。それでは『戦争』の本当の恐ろしさ/悲惨さを子供達に教
える事はできません。
少なくとも、この体験談を語り継ぐとともに、伊勢さまのメ
ルマガも活用させて頂きながら、我が子らにはしっかりした教
育をしなくてはと、改めて考えてさせられました。
富士山2000さんより
岡田資中将の責任の取り方に感銘を受けました。今の企業
の不祥事、それに対する責任の擦り合いを見て、嫌気がさし
ておりましたが、「ここに日本人あり」と心打つものがあり
ました。
今後、知られざる歴史の事実、後世に伝えたい真実の報道
を期待します。
栄舟さんより
今回の内容を見ても、世界に正義が存在するのか疑問に思
います。東京裁判では、被告(所謂戦犯)は真実を述べている
にも関らず、それに正対しない裁判が横行ました。検事と裁
判長が同一人物という裁判にもならない事態が平然と正式に
進み、それが事実として定着しています。国際政治の理想と
現実のギャップは、いつ解決するのでしょうか?
なお、「岡田資氏」をテーマにした映画が2008年3月
1日に公開されます。公式オフィシャルサイトは、次の通り
です。 http://ashitahenoyuigon.jp/ (現在リンク切れ)
参考リンク
■ 編集長・伊勢雅臣より
岡田中将の映画が製作されているとは知りませんでした。
楽しみに公開を待ちたいと思います。
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