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JOG(64) 日泰友好小史(下)
タイの首相ククリット・プラモード氏:「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている」
■1.巧みな外交手腕■
日本が敗れると、同盟国タイにも英印軍、オランダ軍、豪州軍が進駐してくる。イギリスはタイ領土の割譲を要求し、フランスは終戦のどさくさに越境するなど、白人帝国主義の本領を発揮したのだが、タイは国連の安保理事会に訴えるなどして、難を逃れている。
連合軍は、戦争犯罪人を裁くと主張したが、タイは自国ですると主張し、ピブン元首相以下10名を逮捕して裁判にかけたが、その後、容疑者全員を釈放している。驚くべき事に、戦犯として逮捕されたピブン首相は、すぐに釈放され、戦後また首相に返り咲いている。そして反共親米政権を作った。
日本で言えば、東条首相が東京裁判後、すぐに釈放され、再び首相となって、今度はアメリカと組んで、共産主義と対決したといった所である。いわば、戦争には負けたが、爆撃や原爆攻撃は受けず、王制はびくともせず、開戦時の首相がアメリカと仲良くやっていく、という手品のような事が起きたわけである。自虐史観など起こりようがない。
我が国の政治指導者が大正期以降失ってしまった巧みな外交手腕を、タイはずっと維持して、第2次大戦の荒波もかいくぐってきたと言える。[1,p240]
■2.コボリを死なすな■
タイの人々の対日感情を反映し、また形成するのに映画やテレビは影響力が大きい。日本軍将校とタイ女性との悲恋物語、トムヤンティ原作の「メナムの残照」は、タイで人気が高い。すでに3回も映画化され、いくつもの賞を受けている。
大東亜戦争中に、日本人将校小堀と、美しいタイ娘アンスマリンが出会う。彼女は日本への反感に心が揺れながらも、やさしく誠実な小堀にひかれ、やがて二人は結婚する。小堀の子供を身ごもったアンスマリンは、戦火の拡大でバンコクが空襲を受けた夜に行方不明の小堀を探しに行く、というストーリーである。
テレビ化された時は、コボリを死なすな、と大量の投書が寄せられたそうである。
■3.こんな気の毒な日本を見ていられるか■
戦時中、タイは進駐していた日本軍に20億バーツ(30億円) を貸与していた。その返還交渉に使節団が来日した。顧問のソムアンは戦前、日本で過ごし、頭山満などにかわいがられた人物である。 池田蔵相は、日本の経済事情を説明して、返済の値引きを求めたところ、即座に了承した。
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「国に帰ったら、殺されるかな」とフッと思った。けれど、「まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから」と自分に言い聞かせました。
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ソムアン顧問は、さらに次のように語っている。
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日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。アメリカはそっくり返って威張っている。団員は口々に「こんな気の毒な日本を見ていられるか」と言いましたよ。だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです。
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ソムアン顧問とその父で戦前に経済相をつとめたプラ・サラサス氏は、さらに「あまりにも日本の少年少女がかわいそうだ」と言って、私費で象の「花子さん」と米10トンを贈ってくれた。子供達ばかりでなく、当時の大人も花子を見て、敗戦後も変わりないタイの好意に、心暖まる思いをしたのではないだろうか。
プラ・サラサス氏はまた、マッカーサーと直接あって、「将来、アメリカはソ連とかならず対決する日が来る。その時、力になるのは日本である。日本をいじめる事は、アメリカのためにも、アジアのためにも、ならない」と進言している。[1,p250]
■4.身を殺して仁をなした日本というお母さん■
1973年にタイの首相になったククリット・プラモード氏(冒頭写真)は、「サイヤム・ラット」紙の主幹だった頃、「12月8日」と題した次のような記事を書いている。
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日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して、重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。
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このお母さんとは、現代日本の核家族の母親を想像しては間いであろう。戦前の日本のような、そして現在のタイのような、子供を7人も8人も生んで一生懸命育てている母親を想像すると、この「お母さん」の比喩がさらによく分かるだろう。
■5.仁魚■
仁といえば、次のエピソードも忘れがたい。
今上陛下は昭和39年、皇太子時代にタイを訪問された。その時、山奥の苗(ビョウ)族のタンパク質不足の問題をタイ国王からお聞きになり、魚類学者としてのご研究から、飼育の容易なティラピアという魚50尾を国王に贈られた。
この魚はタイ国内でさかんに養殖され、国民の栄養状態改善に貢献するばかりでなく、73年にはバングラデシュへの食料支援として50万尾も贈られたという。
ある日本人は、魚市場でタイ人から、「この魚は、日本のチャオ・ファー・チャイ(皇太子)が持ってきてくれたんだ」と聞かされたそうである。
この魚の漢字名は「仁魚」という。華僑系市民がこの話に感動して、陛下のお名前(明仁)をとって命名した由である。[2]
■6.両国民の思いやりと志の積み重ねの上に■
社民党の土井たか子氏は、平成7年、戦後50年の戦没者慰霊式で衆議院議長として式辞を述べ、「日本はアジアの人々のまことの和解を手にしていないのであります」と語った。
この短い言葉の中には、これからの国際派日本人が犯してはならない誤りが二つも含まれている。
第一の誤りは「アジアの人々」という概括の仕方である。隣り合わせのタイとマレーシアでも、歴史、言語、文化、政治体制、対日関係とすべての面で大きな違いがある。それらを十把一絡げに「アジア」と呼ぶ姿勢には、相手の民族・国家の個性をきちんと理解して、交際していこうという誠実さは感じられない。
第二の誤りは、「まことの和解を手にしていない」というような、口先だけの態度である。タイから見れば、そんなセリフで一人格好をつけている暇があったら、もっと汗をかいて現実の問題の解決に手助けをして欲しいというのが、本音であろう。
前号で紹介したタイの新法制制定を指導した政尾虎吉博士や、女子教育の草分け安井てつの努力を思い起こすべだ。政尾博士が亡くなられた時に、タイは国葬の礼をもって遇したのである。
土井党首率いる社民党は今まで「アジア」の国々のために一体どのような汗をかいたのであろう。社会党時代にカンボジアのPKOにすら国会の牛歩戦術で反対した事しか筆者の記憶には残っていない。
タイと日本とは今回紹介したように120年以上の友好と同盟の歴史を持ち、それは政尾虎吉や安井てつのような人々の志によって、築かれてきた。また敗戦時に好意を寄せてくれたソムアン氏、プラ・サラサス氏のようなまごころによって培われてきた。このような両国の人々の具体的な志と思いやりの積み重ねを思い起こしつつ、その友好関係をどう継承・発展させていくのか、ということを考えなければならない。
[参考]
1. 「アジアに生きる大東亜戦争」、ASEANセンター編、展転社、S63.10
2. 「皇太子殿下の仁魚」、祖国と青年、H4.1
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