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JOG(1410) 鍋島直正公 ~ 民への祈りが生んだ近代技術導入の先駆者

 幕末日本の近代技術導入をリードした佐賀藩の原動力は?



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■1.「なぜ日本だけが独立を維持できたか」が書かれていない

伊勢: 花子ちゃん、幕末から明治維新にいたる激動の時代は、もう中学校で教わったかな?

花子: ええ、ペリー来航から、不平等条約、開港による国内経済の混乱、そして薩摩藩と長州藩による倒幕と進んできました。

伊勢: それが現在の普通の歴史観だけど、一つ大事なことが教科書には書かれていない。アジアの大半が欧米列強の植民地となったのに、なぜ日本だけが独立を維持できたか、という疑問に対する答えがない。

花子: そう言われればそうですね。インドや東南アジアの国々は植民地化され、中国もアヘン戦争でイギリスに負けて半植民地化されたと教科書に書いてありますけど、日本だけが独立を守れたのはなぜなのか、その説明はありませんね。

伊勢: 実は今の歴史教科書が説く歴史観は、戦後の平和至上主義の影響か、軍事技術の進歩と重要性が黙殺されている。ここを書かないから、日本が独立を維持できた成功要因も分からないんだ。

花子: 幕末の軍事技術の進歩って、どう進んだんですか?

伊勢: 具体的に言えば、佐賀藩での軍事技術開発だね。それは明治日本の富国強兵を先導したもので、幕末の近代技術の実力では、佐賀藩に並ぶものはなかった。佐賀藩の実績が無かったら、前回述べたように、日本が日清、日露戦争に勝って、わずか50年で世界一流の海軍国と言われるようになった奇跡も起こらなかったろう。
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JOG(1409) なぜ、日本は開国後わずか50年で「世界一流の海軍国」になれたのか?
 なぜ日本は「世界一流の海軍国」になり、ロシアや中国はなれなかったのか?
https://note.com/jog_jp/n/n42170346ae09
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■2.佐賀藩が先導した鉄製大砲と蒸気軍艦国産化

花子: 佐賀藩の近代技術が凄かった、というのは、どんな史実から窺えますか?

伊勢: 一番明らかなのが、当時の軍事力の柱である鉄製大砲だね。それまでの青銅の大砲より熱に強く、強力な火薬を使えるので、破壊力が増す。その鉄製大砲を量産できたのは、幕末では佐賀藩だけだった。ペリーが来航してから、幕府は急遽、江戸湾にお台場、つまり海上の砲台基地を作り、そこに江戸防衛用の大砲を並べるんだけど、それらの大砲は佐賀藩が製作して60門も幕府に納めた。

 鉄製大砲の製造には、鉄を高温で溶かす反射炉が必要だけど、佐賀藩は合計8つもの炉を建設した。伊豆の韮山の反射炉は唯一現存する遺構として世界遺産にもなったけど、これも実は佐賀藩が技術援助をしている。この製鉄技術が、鉄製軍艦や鉄道、工作機械、橋梁などの近代文明をもたらした。今までの木材や石から鉄への素材革命と言えるね。

 また、もう一つの軍事力の柱が蒸気軍艦だ。ペリーの黒船艦隊には2隻の蒸気軍艦が入っていて、鉄製大砲で幕府を脅かした。実は、日本で最初に実用的な蒸気船を作ったのも佐賀藩だった。最初に藩主・鍋島直正公を乗せて諫早湾を航海し、その後も5年ほど有明海での要人搬送に使われた。

花子: 蒸気軍艦というからには、蒸気機関で動いたのですね。

伊勢: そう、蒸気機関は従来の水力や風力に変わるエネルギー革命で、陸上でも蒸気機関車や、工作機械を動かす動力に使われた。鉄製大砲と蒸気軍艦こそは、西洋列強が世界の植民地化を進めた基幹技術だった。だから日本の独立維持もこの二つの基幹技術を国産化することが鍵だった。その二つを佐賀藩は見事にやり遂げた。

花子: 素材革命とエネルギー革命と、まさしく佐賀藩は独立維持のための富国強兵の先駆者だったわけですね。

■3.第10代藩主・鍋島直正公の志

花子: 佐賀藩でそんなに活発に技術革命を進めることができたのは、なぜなのでしょうか?

伊勢: その中心人物が、佐賀藩の第10代藩主・鍋島直正公だね。もともと佐賀藩は36万石と全国でも10指に入る大藩だけど。天保元(1830)年に、直正公が17歳で藩主の地位についた際には、深刻な財政危機にあった。幕府から任されていた長崎警備の負担、先代藩主のぜいたく、台風被害などでね。それを直正公は質素倹約の徹底や、伊万里焼や石炭採掘などの産業振興で乗り切った。

 その佐賀藩に西洋列強からの国防の重要性に気づかせたのが、文化5(1808)年、先代藩主の時に長崎港を襲ったフェートン号事件だった。

花子: それはどこの国の船ですか?

伊勢: イギリスの軍艦だ。当時はナポレオン戦争の最中、イギリスはフランスと交戦中で、オランダはフランスに征服されていた。そこでイギリス船フェートン号はオランダの旗を掲げて長崎に入港し、出迎えたオランダ商館員2名を拉致した。

 幕府は長崎の警護役をしていた佐賀藩にフェートン号を抑留、または焼き討ちするよう指示したけど、泰平に慣れた佐賀藩は本来の駐在兵力の10分の1の100人程度しか置いていなかった。やむなく長崎奉行はフェートン号の要求通り、食料や飲料水を提供し、オランダ商館員を解放して貰い、フェートン号は去って行った。

 鍋島藩は駐留兵力を勝手に削減していたとして、家老ら数人が責任をとって切腹したけど、長崎の防備の手薄さも明らかになった。直正公は藩主となってから、長崎港入り口の島や港内に砲台を設けて、防備を固めようと考えた。それも反射炉を作って鉄製大砲を並べ、西洋列強に負けない防備を計画をした。そのために、幕府に10万両もの借金を頼んだんだ。

 時の老中首座は賢人宰相・阿部正弘。図体の大きな幕府が反射炉や鉄製大砲の開発をするより、小回りが利き、かつ長崎港警備という大義名分のある佐賀藩にさせた方が良いと判断したんだろう。

花子: 幕府も佐賀藩も、日本の防衛のために、知恵を絞り、力を合わせていたのですね。

■4.何度も失敗して、切腹しようとする家臣に

花子: でも、反射炉の建設や、鉄製大砲の鋳造には、それなりの技術者がいなければできませんね。

伊勢: そう、そのあたり、直正公は人材を発掘し、活躍させるのに熱心だった。反射炉建設の責任者となった本島藤太夫を、各地の西洋砲術の専門家のもとに派遣して、学ばせている。もう一人、技術責任者であった蘭学者・杉谷雍助(ようすけ)は、直正公が大きく拡充した藩校・弘道館の出身で、長崎や江戸で蘭学を学んだ。それ以外にも、刀鍛冶や鋳物師、算術家など若手の精鋭を揃えたんだ。

花子: オランダの書物を頼りにしたとは言え、実際に炉を作ったり、大砲を鋳造したりするのは、大変だったでしょうね。

伊勢: まさにそうだね。本に書かれた通り炉を作っても、なかなか鉄が溶けない。反射炉というのは、燃焼室で木炭を燃やし、その熱がドーム状の天井に反射して、隣の炉床で鉄を溶かすという、ややこしい構造になっている。ドームの形状によっては、熱がうまく反射しないで、鉄が溶けるまで温度があがらない。

 本島藤太夫や杉谷雍助のチームは、何度も何度も失敗して、最後には切腹してお詫びしようとしたけど、直正公はこう言って止めた。
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 鉄の大型砲ができぬ限り、異国の艦隊に軽んじられ、不利を覚悟で戦わねばならぬ。その時には、私も、そなたたちも命はなかろう。ならば死ぬのは、その時でよい。・・・
 葉隠の『武士道というは死ぬことと見つけたり』の一文を、締めくくる言葉を知っていよう。・・・
 今、死ぬ覚悟なら、これからも毎朝毎夕、死ぬ覚悟で、役目に励んでもらいたい。それが武士道だ。今は死んではならぬ。[植松、2092]
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花子: かっこいい殿様ですねぇ。佐賀の『葉隠』の『武士道というは死ぬことと見つけたり』の言葉はこんな風に解釈できるのですね。

伊勢: 植松三十里さんの直正公を描いた小説『かちがらす 幕末の肥前佐賀』の一節だ。小説なので、この通りの発言をしたのかどうか分からないけど、こういう藩主だからこそ、家来たちが何度もの失敗を乗り越えて成功したのだ、と納得できて、胸を打つ場面だね。

■5.蒸気船国産化を担った二人

花子: 蒸気船の方はどうでしょうか? こんな殿様なら、同様の人材育成があったのでは?

伊勢: その通り。こちらは二人の人物が中心だった。一人は佐野常民。もう一人は田中久重だ。

花子: 二人とも「国際派日本人養成講座」で紹介されていますね。
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・JOG(1275) 日本赤十字の創設者・佐野常民 ~「右手で文明開化、左手で博愛」
 前半生は文明開化、後半生は博愛で、幕末・明治の日本を牽引した佐野常民の生き様。

・JOG(485) 田中久重 ~ 日本近代技術の開祖
「精巧な機械を造って新しい日本の建設に役立ちたい」
 https://note.com/jog_jp/n/n9eb19d2eef2b
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花子: 佐野常民は「日本赤十字の父」と呼ばれている人物ですね。

伊勢: そう。日本赤十字の前身である博愛社を設立した人物だけど、弘道館で優秀な成績を収め、直正公に京都、大坂、江戸などで学ぶよう命ぜられた人物だ。藩に戻ってから精煉方(理化学研究所)の主任となり、蒸気船開発を牽引した。

花子: 田中久重は「からくり儀右衛門」で名の通った人物でしたね。

伊勢: 久重は「茶運び人形」などのからくりで大評判をとった人物だけど、そういう娯楽ではなく、本当に人々の役に立つような発明をしたいと、蒸気機関の開発を志した。そこで京都の蘭学塾で西洋の技術を学んでいたところ、佐野常民に出会って、佐賀に来てくれと頼まれたんだ。

花子: 自分が留学中の身なのに、人物を見つけたからと言って、藩に来てくれと頼むなんで、ずいぶん思い切ったことをしたんですね。

伊勢: 当時の佐賀藩は人材豊富で、藩外から雇い入れるというのは、あまりしていなかったようだから、なおさらだね。私は、それだけ常民が藩主の「何としても近代技術を取り入れて国を守ろう」という志をよく知っていたから、久重ならきっと雇ってくれるだろう、と信じていたんだろうと思う。

花子: 当時の人達は本当に志中心に動いていたのですね。

■6.「佐賀藩伝習生の質と量が幕府のそれに勝るとも劣らない」

伊勢: この二人が中心となって、慶応元(1865)年に国産初の蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」を完成させたけど、それまでには長い苦闘の歴史があった。年表風に見ておくと、こんな感じだね。

・安政2(1855)年 幕府による長崎海軍伝習所開設、佐賀藩士が多数参加。
・安政5(1858)年 佐賀藩はオランダから蒸気軍艦を購入し、「電流丸」と命名。
・同年、御船手稽古所(後の三重津海軍所)設置。翌年閉鎖される長崎海軍伝習所で伝習を継続。またドッグを作って、船の修理や材料の製造を行った。
・文久元年(1861年) 電流丸の蒸気機関交換が必要となり、三重津にて交換用蒸気機関製作
・慶応元(1865)年 三重津海軍所にて「凌風丸」完成

花子: 田中久重が佐賀藩に来たのが、嘉永6年(1853)年と言いますから、それから12年もかかって、ついに蒸気船を完成したのですね。

伊勢: 長崎伝習所ではいろいろ面白い記録が残っている。伝習所で学んだ第一期生は合計165名だったけど、幕府の37名よりも佐賀藩47名の方が多かった。もちろん他藩よりもはるかに多い。しかもオランダ教官団の第一代責任者ベルス・ライケンも、第二代のカッテンディーケも「佐賀藩伝習生の質と量が幕府のそれに勝るとも劣らない」と報告書で指摘している。[藤井、p34]

花子: やはり、藩主の鍋島直正公が蒸気船の国産化や海軍建設に本気だったので、その真剣さが佐賀藩伝習生にも伝わったということでしょうか?

■7.直正公と佐賀藩の人々の物語から学ぶべき事

伊勢: おそらく、そういうことだろうね。現代生理学は、人間には「ミラー・ニューロン」という神経経路があり、他者が利他的な行いをしている様に触れると、自分も同様に利他的に振る舞いたいという心理が働くことが明らかになっている。
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JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
https://note.com/jog_jp/n/n4888b20ce948
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花子: それなら、直正公の「近代技術を一刻も早く導入して、日本の民を守ろう」という志が佐賀藩の中で伝播して、家臣たちが一生懸命、その志の実現に努力したということですね。

伊勢: そうだろうね。そして、直正公の「日本を欧米列強から守りたい」という志は、まさに神武天皇の「大御宝を鎮むべし」、すなわち民を「大御宝」として、その安寧を実現したいという利他心の発露だと思う。佐賀県が近代技術の導入にこれほどの成果を出したのは、まさしく「大御宝を鎮むべし」の祈りのパワーを実証したものだと言えるだろう。
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JOG(74) 「おおみたから」と「一つ屋根」
 神話にこめられた建国の理想を読む。
https://note.com/jog_jp/n/ne32fd24bf491
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花子: 直正公の思いに触れると、現代の私たちも何かやり遂げなければ、という気がしてきますね。

伊勢: その通り、社会科の学習指導要領では「主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の形成者」を育てる事という目標を掲げているが、そのためにも直正公や佐賀藩の人々の物語を学ぶことは、大事だと思うんだ。

花子: とすると、直正公の志を学校で学べない私たちは、利他心を育てる大事な道の一つを奪われているということですね。それはちょっとおかしいのでは?
(文責 伊勢雅臣)

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・伊藤昭弘『青年藩主 鍋島直正: 天保期の佐賀藩 (佐賀学ブックレット 8)』★★、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、R02
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4866560665/japanontheg01-22/

・植松三十里『かちがらす 幕末の肥前佐賀』★★★、小学館文庫、R02
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4094068406/japanontheg01-22/

・杉谷昭『鍋島閑叟: 蘭癖・佐賀藩主の幕末』★★、中公新書、H4
 http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121010671/japanontheg01-22/

・杉谷昭『鍋島直正 (佐賀偉人伝 1)』★★、佐賀県立佐賀城本丸歴史館、H23
 http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905172004/japanontheg01-22/

・藤井哲博『長崎海軍伝習所: 十九世紀東亜文化の接点』★★、中公新書、H3
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121010248/japanontheg01-22/

■編集後記

 最近、YouTubeチャンネル「伊勢雅臣の国際派日本人養成講座」で、乃木希典大将が名将か愚将かで、コメント欄が盛り上がっていましたが、人間としての乃木大将を敬愛する私としては、こういう歴史オタク的な論議にはあまり興味は持てませんでした。

 そこで、最近、乃木大将の「仁将」ぶりを描いた2編をYouTube公開しました。

・JOG(792) 昭和天皇をお育てした乃木大将
 昭和天皇:「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」
https://youtu.be/7Fh0y22r7Bg

・JOG(802) 乃木大将の「みあとしたひて」
 明治天皇に殉死した乃木大将は、その後も多くの人々の心の中に生き続けた。
https://youtu.be/E2xa3QEIJSU

 お陰様で、それぞれ日当たり数百件規模のアクセスがあり、また次のようなありがたいコメントも、戴いています。
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 またしても、乃木希典将軍の偉大な人物像を深くYouTubeに配信して下さり、初めてその人なりを知ることができました。ありがとうございました。
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 乃木将軍は、戦前の我々の父祖がもっとも敬愛した人物です。その葬儀には数十万人の民衆が集まりました。そういう父祖の思いを忘れてはならない、と思います。

■講演会・勉強会情報

・第6回東京「竹島の日」大集会

 日時  3月3日(月) 17:30~
 会場  衆議院第一議員会館 地下1階 大会議室
 講師  基調講演「今や竹島問題解決の時」
   下條正男先生(拓殖大学名誉教授・島根県立大学客員教授)
 参加費 入場無料
 主催  県土・竹島を守る会

・和歌(御製)を味わい学ぶ歴代天皇講座
 第3回「承久の乱と後鳥羽上皇の御製」
 日時  令和7年3月16日(日)14時~16時半
 会場  国立オリンピック記念青少年総合センター
 会費  500円(学生無料)
 詳細・申込み https://kokubunken.or.jp/business/waka/1st/#request

・「ニッポンだいすき」歴史勉強会(第4回)

 日時  3月29日(土)10:30~12:30
 会場  かながわ県民センター(横浜駅から徒歩数分)
 テーマ 「なぜ天皇は『日本の象徴』なのか? 皇位継承」
 講師  清田直紀氏(公立中学校教諭)
 参加費 入場無料(カンパ歓迎)
 申込み yokokyorenjimukyoku@yahoo.cojp

・川崎正論の会

 日時  3月29日(土) 午後2時~4時
 会場  ミューザ川崎
 講師  日大名誉教授・百地章先生
     「国難の克服に向けて ー夫婦別姓・男系の皇統・そして改憲」
 参加費 1000円(ただし資料代として任意)
 申込み https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScmizXoR9ch07LBvrZpQeFciwNadE6r-thFRCZlB4lgPJlAkQ/viewform

 読者からのご意見をお待ちします。本号の内容に関係なくとも結構です。本誌への返信、ise.masaomi@gmail.com へのメール、あるいは以下のブログのコメント欄に記入ください。
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