JOG(840) 国民のおばばさま、貞明皇后(下)
「国民のおばばさま」は、我が子や孫のように国民を思い、その幸せのために尽くした。
前号より続きます。
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■1.「何か世の中の役に立つような事をしたいと思う」
節子(さだこ)皇太后について、民間で言えば嫁にあたる高松宮喜久子妃は次のように語っている。
節子皇太后は、ひたすらに国民の幸せを願って、その一生を捧げ尽くした。
■2.ハンセン病患者たちの感激
ハンセン病患者の救済に関しては、節子皇后が救ライ事業に生涯を捧げた光田健輔(みつだけんすけ)を陰ながら応援された事績を本誌200号[a]で紹介した。ここでは、節子皇后ご自身の事績について、もう少し触れておこう。
大正10(1921)年頃、大正天皇とともに、沼津の御用邸にでかけた。汽車が御殿場にさしかかった時、皇后が御供のものに、「フランス人がライ患者の世話をしているのは、どのあたりですか」と尋ねた。
以前、静岡県知事が御用邸に伺候した際に、御殿場でフランス人レゼー神父が作ったハンセン病患者の病院があるのだが、第一次大戦のために本国からの送金が途絶えて神父が困っている、という話をしたのを思い出したのだった。
それから間もなく、皇后から病院に慰問の品が届けられた。また大正13(1924)年には金一封と着物の反物が患者全員に贈られた。
この病院は東海道線沿いに建っていた。患者たちは皇后陛下の気遣いに感激し、陛下のお召し列車だけでも拝したいと希望した。しかし当時はハンセン病への偏見が強く、当局はこれを許さなかった。しかし、なにかのはずみで、これが皇后の耳に入ると「遠慮はいらない」と快諾した。
当日、軽傷の患者30人が職員と共に日の丸を掲げて、お召し列車を待った。やがてお召し列車が近づいてきた。思わず頭を垂れた患者たちが、ふと上目遣いに見上げると、車窓は大きく開けられ、皇后が起立して顔を傾けて答礼していた。
患者も職人も、感激の涙にくれた。その一人である明石海人(かいじん)が次の和歌を詠んでいる。
そのかみの悲田(ひでん)施薬(せやく)のおん后(きさき)いまを座すがにおろがみ奉る
ハンセン病に対する世間の偏見から、冷たく扱われることの多かった患者たちにとって、皇后の思いやりは、まさに悲田院、施薬院を作った光明皇后の再来さながらに思われたのだった。皇后としても、自らこうした思いやりを示すことで、世の中の偏見を少しでも直していこうという気持ちがあったのだろう。
■3.「みんなで皇太后さまにおれいを申しませう
もう一つ「燈台守の労苦を慰める」とは、次のような事績である。皇太后は昭和11(1936)年12月末に、全国の燈台を守る人々に、次のお歌とともに、金一封を下賜された。
荒波もくたかむ(砕かむ)ほとの雄心をやしなひながら守れともし火
このお歌を色紙に複製し、御下賜金で購入したラジオとともに、全国約200の燈台に配ることになった。燈台守の家族は、人里離れた岬や離島に住んでいる事が多いので、その慰めとなること、そしてラジオで気象情報を聞く事で、いざという時にも役立つという配慮があったのだろう。節子皇太后の志を生かした名案である。
この時にラジオを贈られた燈台守の家族の少女が書いた作文が残っている。山口県の瀬戸内海の小島に住む尋常小学校3年生の八木みゆきという少女が書いた「楽しいラジオ」と題した作文である。
ラジオという物質的な恵みもさることながら、皇太后が自分たち燈台守とその家族のことを気にかけてくれている、という事実が、人里離れた場所で孤独な職務に励んでいる人々にとって、いかばかりか心の支えになったことだろう。
皇太后の燈台守たちへの思いやりが刺激となって、燈台職員の待遇改善、福祉増進などが積極的に行われるようになったという。日の当たらぬ人々の身を常に案じていた皇太后にとって、それはなによりの結果であったろう。
■4.「おまえたち、わたくしの帰るのを待っていてくれたのね」
もう一つ、皇后が力を入れたのは養蚕である。明治4年に明治天皇の后・昭憲皇太后が宮中で養蚕を始めた。資源の乏しい日本で、絹製品は外貨を稼げる貴重な輸出品だった。宮中で自ら養蚕を行うことで、国民に範を垂れ、大事な産業の奨励に努めたのだった。
その思いを節子皇后も引き継いだ。第一次大戦が終わり、日本の輸出はめざましく伸びたが、その花形が他国に真似のできない美しい絹製品で、製糸工場には3百万人の女工が働いていた。
大正2(1913)年には宮中の紅葉山に養蚕所を新築し、さらに旧本丸跡に3千坪の桑畑も設けた。そこでは各県の養蚕学校から選抜された学生が10人も作業にあたっていた。
節子皇后も時間があれば養蚕所にいそいそと出向き世話をした。そこで蚕が桑を食べている賑やかな音を聞くと、「おまえたち、わたくしの帰るのを待っていてくれたのね」と話しかけた。
大正14(1925)には製糸工場で働く女工たちの悲惨な実態を描いた『女工哀史』が刊行された。各地で労働組合が結成され、社会主義的思潮が広がりだした。節子皇后が養蚕に打ち込んだのは、養蚕の尊さを身をもって訴え、女工たちの生活を思いやってほしい、という気持ちもあったのだろう。
ちなみに皇后による養蚕は「皇后御親蚕」と呼ばれ、現在の美智子皇后にも引き継がれている。特に美智子皇后は「小石丸」という日本古来からの純粋種の飼育を、国内でただ一カ所、皇居の中で続けられており、正倉院の染織品の復元に貢献されている。[b]
■5.「外国の貴婦人たちがもう一度こゝに集まり、花をながめて楽しむ時が早くくればいゝ」
昭和に入ってから、世相は険しさを増していった。中国での戦争は長引き、米英との関係も悪化した。皇太后はこの事に心を痛めていた。そして、平和のために少しでも役に立とうと、外国の駐日大使とは積極的に交友を深めた。
特筆に値するのは、アメリカ大使ジョセフ・グルーの妻アリスを昭和16(1941)年5月9日に接見したことである。真珠湾攻撃のわずか7ヶ月前の緊迫した時期である。山本五十六・海軍次官がグルー大使公邸に招かれただけで、国賊扱いされるような風潮の中で、これは勇気のいる決断だった。
皇太后はアリス夫人と通訳を介して30分ほど話したが、皇太后の暖かい人柄はアリスを魅了した。グルーは自著『対日10年』の中で次のように書いている。
「皇太后はまたアリス夫人が聾唖学校に関心を持っていることを知っておられ、彼女がつくしたことを感謝された」とグルーは続ける。ハンセン病患者たちへの思いと同じである。
実は、皇太后はアリス夫人を迎える前日、秩父宮妃を食事に招待して、アリス夫人に関する予備知識を仕込んだようだ。勢津子妃は駐米日本大使の娘でアメリカの事情に詳しく、グルー夫妻とも親交があった。
皇太后は、どんなお客にも、必ず事前に相手の出身地や趣味、家族構成を調べておいて、実際に会ったときに会話が弾むように心がけていた。日本の皇太后から、そのような心配りを受けたアリス夫人の感激は想像に難くない。
グルーは皇室がアメリカとの親善を熱心に切望しているとの印象を持った。それは真珠湾攻撃の7ヶ月前の切迫した時期に、まさに皇太后が伝えたかったメッセージであった。
■6.「これで一般国民とおんなじになった」
皇太后の努力もむなしく、日米開戦に至り、やがて日本本土は米軍の空襲にさらされる。昭和天皇は空襲のたびに、皇太后が避難されたかどうか心配して、お付きの者に何度もご下問があった。
皇太后の住む大宮御所にも「お文庫」と呼ばれる防空壕があったが、それは御所から急な坂道を降りた茶畑の一角にあり、60歳になる皇太后が夜道を避難できるのかと天皇は案じた。
安全な所に疎開してもらいたいと天皇は何度も勧めるのだが、皇太后は「お上を東京に残して自分だけ動く気はありません」と、どうしても応じなかった。
そうこうするうちに、昭和20(1945)年5月25日の夜、大宮御所は無数の焼夷弾で全焼、皇太后がお文庫に入った瞬間に、そこに焼夷弾が落下炸裂したという、まさに間一髪の避難であった。
お文庫と言っても、わずか4畳半の地下室である。皇太后はそこで大正天皇の写真を朝夕に礼拝しながら、暮らし始めた。見舞いに訪れた高松宮妃に、皇太后は「これで一般国民とおんなじになった」と言った。関東大震災の時は、着の身着のままの国民を案じて、自分も夏服を変えることなく過ごしたが、それと同じ気持ちだった。
■7.「国民のおばばさま」
敗戦後、しばらく経っても、皇太后は黒パンの代用食を食べていた。ある人が、そろそろお米にも事欠かかぬようになってきたので、ご飯を召し上がっていただきたい、と申し上げると、皇太后は次のように答えた。
また、戦争がおわってからも、皇太后はもんぺを着用していた。戦後も何年か経つと、誰ももんぺをはかなくなったので、そろそろやめたらいかがかと進言する人がいた。すると皇太后は「あの戦争を覚えている人が一人くらいはいてもいいでしょう」と答えた。
同時に、昭和天皇の全国ご巡幸の手助けと思われてか、自分でも近くの学校や引揚者の寮や工場などに出かけて、国民を励ました。
特に皇后時代から取り組まれていた養蚕に関して、昭和22(1947)年、大日本蚕糸会の関係者から、節子皇太后を総裁にという声があがり、「何かの役に立つなら」と快諾した。空襲で国中の工場が破壊されて、外貨獲得のための輸出産業として養蚕業の振興に役立ちたいと、皇太后は積極的に各地の蚕糸業を視察して回った。
昭和26(1951)年5月17日、各地から大宮御所に来て清掃作業をしてくれた勤労奉仕の人々に挨拶をしようとしていた矢先に、皇太后は狭心症を発症し、崩御された。
皇太后は「国民のおばばさま」と呼ばれるほどに、敬愛を集めていた。国民を子や孫のように肉親の情を持って慈しまれた御心を、国民の方も敏感に感じとっていたのだろう。まさに皇室の伝統精神を体現された生涯だった。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)1. 工藤美代子『国母の気品―貞明皇后の生涯 』★★★、清流出版、H20