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JOG(322) 恩に酬いる心 ~ 真珠湾に沈んだ

特殊潜行艇で真珠湾攻撃を成功させた「軍神」は、地味で目立たず、思いやり深い青年だった。


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■1.還らざる友■

 時計が3時を示すと、機械のように正確に海軍省報道部のH大佐が肥った身体を記者室に現した。普段は冗談好きな明るいH大佐が、今日は真剣な面持ちで発表文を読み出した。

 昭和17年3月6日午後3時、海軍省発表、、、

 内容は、海軍画家・牟田口隆夫がすでに聞いていたものだった。約3ヶ月前の昭和16(1941)年12月8日、航空兵力による真珠湾攻撃と同時に特殊潜行艇5隻が湾内に侵入し、アリゾナ型戦艦を魚雷攻撃により轟沈させた、というものだった。隆夫は事前にこの発表の原稿を渡され、2枚の想像図描き上げた所だった。1枚は魚雷の航跡と爆破の瞬間の敵戦艦を描いたもの、もう一枚は特殊潜行艇の一人の士官が大胆にもハッチから半身を現し、望遠鏡で自らの放った魚雷が敵戦艦後部に命中して巨大な水柱を上げているのを確認している光景だった。

 5隻の潜水艇は襲撃成功を打電した後、帰還の命令を受けていたが、通信が途絶した。そのため撃沈または自爆したものとして、2階級特進の栄誉を授けられる、とH大佐は発表した。その戦死者名を聞いて、隆夫は耳を疑った。隆夫の幼なじみだった「牟田口隆夫」の名があったからである。

■2.静かなる軍人■

 報道部の仕事部屋に戻ると、隆夫は声を揚げて泣き出した。絵の具皿の散らばったテーブルの上に突っ伏したまま、背を波打たして泣いた。真人の死がただ悲しいのではなかった。あのおとなしい真人が見事な武勲を建てた感動と、そんな男とは知らずに狎れ親しんでいた事の悔いと、またそれほどの男を親友にもった喜びと、様々な思いが渦巻いて彼を泣かしめるのだった。

 しばらくして心が鎮まると、隆夫はあらためて自分の描いた夜襲の画をじっと見つめた。そしてハッチから半身を現した士官が真人そっくりだったのに気がついて、驚きの声を発した。彼は知らないうちに真人を描いていたのである。

 その晩、隆夫は真人の夢を見た。隆夫はどういう訳か、真人ともう一人の兵曹の操縦する小さな潜航艇に一緒に乗っているのである。「貴様、この艇内に、乗っちょったのか」と隆夫に気づいた真人は厳しい声で言ったが、やがて仕方がないという風に、いつもの優しい顔に戻って、「作業の妨害せんように、隅へ引っ込んどれよ。非常に危険だからな。」

 やがて、頭上の海面から大きな音が立て続けに伝わって艇を震わせた。「友軍の飛行機が攻撃を始めたようだ」と真人は静かに言って、なおも兵曹と将棋を続けた。しばらくして「よし、時間だ」と直人は立ち上がった。機械に向かってなにやら操作をした後、「撃て!」と号令をあげた。数秒後に水中が渦巻くような轟音が起こった。真人は喜色満面で「隆夫、喜べよ。ア
リゾナ型をやった。」

 隆夫が「チェストー!」と薩摩弁で叫んで、真人に飛びつこうとすると、「待て。軍人は、報告をすまさんと任務が完了せんでなぁ」真人は静かに無電台の前に座った。

■3.感心な子供■

牟田口隆夫は大正8(1919)年、鹿児島市の精米商の家に生まれた。すでに女5人、男5人という子沢山の家だった。手のかからない、おとなしい赤ん坊で、病気もせずにすくすくと育った。やがて友だちと遊ぶ年頃になったが、決してえり好みをせずに、誰とでも仲良く遊んだ。ただ同年の牟田口達夫とは特に気があった。

 真人が8つになって尋常小学校に入った年、父が急に病気で亡くなった。真人の次の子も生まれており、12人の子どもを抱えて、母のワカは必死に精米商の仕事を続けた。

 達夫とともに県立第2中学校に入学した真人は、2学期には成績優良のために副級長に選ばれた。ワカは「そや、よかった」と喜んで、珍しく駄菓子を祝いに買ってくれた。この頃には、真人は、いつもボロのような着物を着ながら、自分たちにはこざっぱりした服装をさせる母親の気持ちが分かってきた。子どもと家のこと以外、自分の事は何一つ考えようとしない母親の心が身に沁みた。

「お母はんの飯ァ、おいが盛る。」 ある朝、真人は突然、こう言い出した。「男ン子が、そげんこつ、せんでもよか」とワカはたしなめた。しかし真人が「そいなら、一杯だけ」と赤面しながら粘ると、さすがに拒みかねて茶碗をさし出した。真人は愛情の大きさを示すように大盛りにすると、ワカは「ホッホッホ、こや、魂消(たんが)った」と嬉しそうに言った。

 この頃から、真人は弁当のおかずが大根の漬け物だけでも文句も言わず、米粒一つも残さないようになった。しかしその感心な所は、ワカを必ずしも喜ばせず、逆に不安な思いをさせた。

あげな子供は、早死にすっとやなかとや。

■4.「みんな薩摩から出た」■

 中学3年生になると、今後の進路を決めなければならない。「サラリーマンちは、如何(いけん)してん、性に合わん」と真人は思った。級友の誰もが上の学校を目指しているのに、自分だけが中学校を出てすぐに月給取りになるのは、いやだった。

 何とか上の学校に行きたいと思うが、兄弟の中で自分だけが莫大な学費を使って高等教育を受けるのも気が引けた。とすると官費の学校となるが、師範学校は何となく気が進まなかった。「軍人がよか。陸士(陸軍士官学校)か、海兵(海軍兵学校)でん、、、」

 そんな時、真人は図書館で「薩英戦争余話」という本を見つけて読みふけった。そして西郷従道、川村純義、東郷平八郎、伊東祐亨など、郷里の薩摩から海軍の元帥や名将が輩出していることを知った。薩英戦争では東郷どんは17歳の初陣で砲台で奮戦した。山本権兵衛大将は、齢12歳で出陣こそ許されなかったが、弾運びとして働いた。彼らはそこで英国艦隊の武力
を知り、その後は見栄にも意地にも囚われず、英国に師の礼をとって、日本の近代海軍の建設に尽くしてきた。「みんな薩摩から出た」、そう思う真人の心にある決心が生まれた。

 真人は海軍兵学校を受けたいという自分の決意を母に伝えた。「お前(まん)さぁが、そげん決めたや、そっでよか。」と母はあっさり許してくれた。

■5.「恩師」■

 17歳で4年生となった。上の学校に合格すれば、5年次を飛ばして進学できる。真人の年次は陸海軍を目指す者が多く、子供の頃から海軍に憧れていた隆夫も、もちろん海軍兵学校志望だった。真人の学級の主任教師で英を教える緒方先生は非常なご機嫌で、九州第一の入学率を目指そうと、意気盛んだった。数学、英語、物理、化学と、それぞれ受持の教師がついて、その自宅や教室で真剣な指導が行われた。

 英語の得意な真人も、仲間と一緒によく緒方先生の自宅を訪ねては、遠慮なく質問をした。先生は、真人らが納得のいくまでじっくりと相手をしてくれた。先生の自宅に出入りするうちに、飾らずして気品のある侍らしい家風と、珠のごとき先生の人格を尊敬せずにはいられなかった。老いたご母堂と奥様と6人の子供がいたが、子供好きの真人は2つの四男にまで好かれ
た。先生は月に一度は精華堂という洋菓子店に真人らを連れて行ってくれた。「恩師」という言葉を、しみじみと緒方先生に感じた。

 8月の5,6日に海軍兵学校入学志望者の体格検査が行われた。小柄な真人は心配したが、なんとか合格した。校門の所で待っていると、隆夫が涙を目に一杯貯めて出てきた。近視のために落第したのである。「隆夫っ、来年もあっが!」と真人は拳で隆夫の背を打ちながら、彼の目からも涙がこぼれた。

 学科試験は12月20日から4日間にわたって行われた。年
が明けて、2月11日、学校での紀元節の記念式典を終えて、家に着くと、電報配達夫がやってきた。「カイヘイニゴウカク」 その瞬間、真人の頭は真っ白になって、母親に電報を見せるのが精一杯だった。すぐに学校に飛んでいくと先生方は教職員室で祝賀の赤飯の折詰めを前にしていた。真人が電報を見せると、緒方先生は立ち上がって、真人を抱きしめた。学校全体では陸海軍で合計29名もの合格者を出した。全国的に輝ける成績だった。

■6.出発■

 3月25日朝、真人は着古した二中の制服に、風呂敷包みを抱えて、西鹿児島駅の3等待合室で列車を待った。いよいよ広島県江田島の海軍兵学校に向かうのである。母と二人の兄、それに隆夫とその妹エダが見送りにきていた。

なんも、いうこたぁなかどん、体の大切に、気張って、、

 多くを語らない母親の気持ちが、かえって真人の心に沁みた。隆夫は「手紙っ、忘るっな」と友情にあふれた声を出した。勝ち気なエダはどうしたものか、ツンと澄ましている。

 そこへ緒方先生や同級生たちが入ってきた。始業前にわざわざ駆けつけてきたのだった。数日前に暇乞いをしていたのに、今また見送りまでされるのは恐縮だった。そしていくら真人が断っても、列車まで見送ると言って聞かなかった。

 真人は列車に乗り込み、窓から身を乗り出した。発車のベルが鳴り渡った所に、エダが前に飛び出して言った。「自分一人(ひとい)、海軍に入(い)って、偉(よ)かばしのごっ」

 列車の中で真人はエダのことを思わずにはいられなかった。(小娘の癖に、肝ん太か奴じゃ。よっぽど、おいがことを、憎んじょる様子じゃが、、、) 若い娘が思いとは反対の行動をとることもある、とは、まだ若い真人には分からなかった。

■7.海軍兵学校にて■

 翌日未明に呉に着いて、一番船で江田島に渡る。校門をくぐると、塵一つなく清掃された校内は、松と杉と桜と、そして春の美しい瀬戸内海を背景にして、清浄な雰囲気を漂わせていた。

 4月1日に入校式があり、兵学校での教育が始まった。そこでの原理は「整頓と敏捷」だった。たとえば朝5時半に起きて15分で寝具を片づけ、洗面を済ませなければならない。たたんだ毛布にシワ一つあってはならず、また隣のベッドと一直線になっていなければならない。いざ戦闘となって、武器をノロノロ探していたら、すぐにやられてしまうので、「整頓と敏
捷」は軍人としての基本であった。整頓はまた海軍らしいダンディズムにもつながる。靴をピカピカに光らせていないと、たちまち先輩の叱声が飛んでくるのである。

 授業ではまず体育の猛訓練があり、その後に砲術や軍政などの軍事学、そして数学、理化学、歴史地理、外国語などの普通学の授業がうんざりするほど続く。食事は栄養を十分に吟味したご馳走ばかりで、豚カツやビーフ・シチューなどが昼も夜も出て、粗食で育った真人はメキメキと立派な体格に育っていった 。

 真人は時間をやりくりしては、教育参考館で帝国海軍の伝統を語る品々を見て回った。特に東郷元帥室では、郷里の大先輩の肖像画が厳粛で慈愛のこもった表情で真人を見おろしていた。真人は東郷元帥の伝記を読みふけっては、その沈黙と謙譲と質素とを心に刻んだ。[a,b]

■8.果たしてこれは誰の恩ぞや■

 日曜日には、よく教官の官舎に呼ばれて、夫人の手料理をご馳走になった。厳しい寮生活をしている生徒たちが、家庭に戻ったような気持ちになれる一時だった。ここでも真人は温かい師の恩を身に染みて感じた。最上級生となって卒業も間近に迫った2月9日、父の命日にはこんな日記を記している。

 父の死なれた時は、わずか小学生一年生なりしも、今は天下の海軍兵学校に身を置くことを得。果たしてこれは誰の恩ぞや。大君の恩、父母の恩、恩師の恩これなり。この恩に酬いるは正に吾人最大の務めなるべし。安心されよ、不肖大いに頑張るなり。

 そして卒業式。式が終わると、すでに練習艦の八雲と磐手の2艦が江田島の海に待ちかまえていた。即日、練習艦隊で半年の航海に出る。ここでは海軍選り抜きの水兵たちが部下として、真人らを待ちかまえていた。初めて部下を持つ候補生たちを、下からも鍛え上げようと深い考慮が払われていたのである。

 訓練期間が終わると、真人は潜水艦乗りを希望した。地味で目立たず、一本の魚雷を撃つまで忍耐強く海中に潜んでいる、そういう頑張りは自分に合っているような気がした。

■9.静かな優しい真人の声■

 真人らの乗った特殊潜行艇の真珠湾攻撃の詳細が発表された翌日、隆夫は出発前に書かれた真人の自筆の遺書の写真版を新聞で読んだ。

 全国非常の秋(とき)に際し死処を得たる小官の栄誉之に過ぐるものなし 謹んで天皇陛下の万歳を奉唱し奉る二十有三年の間、亡(なき)父上母上様始め家族御一同様の御恩、小学校中学校の諸先生、並(ならび)に海軍に於
御指導を賜りたる教官上官先輩の御高恩に対して衷心より御礼申上候同乗の下畑兵曹の遺族に対しては気の毒に堪えず 最後に、皇恩の万分の一にも酬ゆる事なく死する身を羞(は)ずるものに有之候

 まったく真人らしい遺書だ、と隆夫は思った。何度も読み返すと、あの静かな優しい真人の声が聞こえてくるような気がした。

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 以上は、実際に特殊潜行艇で真珠湾攻撃に殉じた9勇士の一人、横山正治をモデルにした獅子文六の小説「海軍」の一部である。主人公の谷直人を「軍神」として神格化することなく、地味で忍耐強く思いやり深い性格として描き、父母や恩師の恩愛に応えようとする心が読者の胸に迫ってくる。

 こういう小説が戦時中に朝日新聞に連載されて好評を博し、朝日文化賞を受賞しているのである。国運を賭した大戦争に向かう当時の国民の平静な緊張感が良く窺われる。それは決して軍国主義のプロパガンダに乗せられて熱狂のうちに戦争に駆り出された、というようなものではないのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(226) 盗まれた楽園、ハワイ王国
日本との「同種族連合」を目指すカラカウワ王に、白人特権階級が反旗を翻した。
【リンク作成中】

b. JOG(236) 日本海海戦
世界海戦史上にのこる大勝利は、明治日本の近代化努力の到達点だった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)




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■「恩に酬いる心 ~ 真珠湾に沈んだ若き命」について

ハマダさんより

 真人の死がただ悲しいのではなかった。あのおとなしい真人が見事な武勲を建てた感動と、そんな男とは知らずに狎れ親しんでいた事の悔いと、またそれほどの男を親友にもった喜びと、様々な思いが渦巻いて彼を泣かしめるのだった。

「親友が死んで、悲しいけれど嬉しい」。命を賭けるということを正しく知っていた時代の日本人は一見不条理なこの感情をきちんとわかっていたのですね。

 命がなくなるという現象には悲しみ以外の何者もない、という事が間違いであることを、理屈ではなく心でわかるようにならないと殉職や戦死が栄誉である、という認識は生まれないでしょう。

 けれども「死は誉れ」だと思おうとすると、胸が痛いのです。こんなことでは、殉職者を讃えることにならないと思っているのに。

 自衛隊のイラク派遣、北朝鮮問題や台湾との関係など時代は日本に「戦える」国に立ち戻ることを要請しています。現代日本人は、病気や事故などによる「受動的な死」のみならず任務や義心などによる「能動的な死」を受け止める毅さを取り戻さなければならないのでしょう。死を見つめることは、正直いって辛いことではありますが。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 友を失った悲しみと、生命をかけて大切なものに殉じた友を持った喜びと、その狭間に人間としての真情があるのでしょう。 

© 平成15年 [伊勢雅臣]. All rights reserved. 

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