JOG(644) 「沖縄県民斯ク戦へり」(下) ~「県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ」との祈り
大田實中将の電文に感銘した多くの人々が、沖縄の為に尽くした。
(前回より続きます。)
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■1.「海軍戦没者慰霊之塔」と司令部壕の復元
昭和27(1952)年3月、大田中将の運転手を務めていた堀川徳栄・元一等機関兵曹ら3人が、7年ぶりに司令部壕に入り、中将の遺骨を収集した。遺骨は、かつ夫人ら遺族に渡された。
堀川さんらは、引き続き、司令部壕の上の丘に「慰霊之塔」を建立することを目指した。旧海軍軍人らで募金活動を行って332坪の土地を購入し、堀川さん自らブルドーザーを運転して、整地した。
昭和33年10月、「海軍戦没者慰霊之塔」が完成し、除幕式と慰霊祭が執り行われた。塔の台座は軍艦の艦首を模し、艦橋の中程に約5メートルの墓標がそそり立った。塔の奉安室には、地下壕から収集された約2百柱の遺骨が安置されている。
引き続いて、旧海軍軍人などによる「海友会」が結成され、沖縄出身の最古参の元海軍大佐・渡名喜守定氏を会長として、海軍司令部壕の復元・整備事業を企画した。しかし、巨額の費用がかかるために、なかなか実現には至らなかった。
昭和43(1968)年1月、米軍軍政下で琉球政府行政主席を務めていた松岡氏が、渡名喜会長を沖縄観光開発事業団の理事長に任命したことで、計画が進み始めた。渡名喜会長は、旧海軍司令部壕整備を第一の開発事業とし、松岡主席の賛同も得た。
地下壕は昭和45(1970)年2月に落成式が行われ、現在も公開されている。戦後、旧軍への反感の強かった沖縄で、この海軍司令部壕が何の妨害もなく復元され、公開されたのは、大田中将の沖縄県民への思いが伝わっていたからであろう。
■2.「これこそ我々が引き継ぐべき沖縄問題の原点ではないか」
大田中将の電文に心動かされた人々の中に、自由民主党代議士だった山中貞則さんがいる。自身は陸軍中尉として、中国で終戦を迎えている。
昭和39(1965)年、山中さんはかつて政務次官として仕えた佐藤栄作氏が首相となると、膝詰めで談じ込んだ。
■3.「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わらない」
日本国首相の戦後初の沖縄訪問は昭和40(1965)年8月19日に実現した。その第一歩、到着した那覇空港で佐藤首相が発表したステートメントが山中さんを驚かせた。
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わらない」と首相は語った。大田中将の「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ」という訴えに呼応するかのような、これまた歴史に残る名言である。
沖縄返還に関する日米協議は昭和43(1968)年に始まり、翌年11月の日米首脳協議で3年後の返還が合意された。昭和45(1970)年1月、第3次佐藤内閣で山中さんは総理府総務長官に任命された。山中さんは、一度は「役不足だ」と断ったが、首相から「沖縄をやるんだよ」と言われて、「沖縄のことでノーと言っちゃあ、日本の政治家じゃあないですなあ」と引き受けた。
就任直後、沖縄へ飛び、海軍司令部壕を訪れた。歌人でもある山中さんは次の歌を詠んだ。
■4.「後世格別ノ御高配」に応えているか
山中さんは総務長官として、沖縄祖国復帰の準備段階から陣頭指揮をとり、さらに復帰後は初代の沖縄開発庁長官も兼任した。琉球政府への財政援助、為替差損の補填など、沖縄のための政策を次々と実行していったが、その一つに通貨交換がある。
米軍統治下の沖縄ではドルが使われていたが、祖国復帰時に円に戻す必要があった。戦後は一ドル360円の時代が続いていたが、昭和46(1971)年8月の円の変動相場制移行で、一ドルは305円に下がり、これでは大変だと、沖縄県民の間で大きな動揺が起きていた。
山中さんは閣議に諮って、360円の固定相場での交換を決めていたのだが、それが漏れると、本土で305円でドルを買い、沖縄で360円に交換するというドル投機が起こる。それを防ぐために、記者会見で「360円交換は断念」と泣いて見せる芝居までやった。
■5.「大田司令官の御遺志に報いる道」
山中さんから、通貨交換の当事者である日本銀行那覇支店の初代支店長として推薦されたのが新木文雄さんだった。その理由の一つが、新木さんが海軍少尉時代に大田中将の電文に感激した人だったからだという。
新木さんは沖縄戦当時、鹿児島県鹿屋航空基地で特攻機との通信を行う大部屋に配属されていた。
祖国復帰前は米軍の軍政下で、日本政府が前面に出られないため、新木さんの所に、経済以外にもあらゆる問題が持ちかけられた。新木さんは、その一つ一つを政府と相談しつつ、真摯に対応していった。
■6.「沖縄県民は大田中将に本当に感謝している」
新木さんには、貴重な「同志」がいた。[1,p539]
この屋良朝苗知事は、大田中将の3男・落合畯(たおさ)さんと会って、中将への感謝を語っている。戦後、畯さんは困窮した大田家から、かつ夫人の兄である落合英二・東京帝大医学部教授のもとに養子入りしたのだった。その後、防衛大学校を出て、海上自衛隊に入り、父の最期の地である沖縄での勤務を志望して、防衛庁沖縄地方連絡部名護募集事務所長を務めていた。
昭和48(1973)年、屋良知事から人づてに落合さんに会いたいと申し入れがあった。落合さんは、自衛隊員の募集がうまくいかない一因は、革新知事にあると考えていたので、日頃思っていることを目一杯話そうと、知事公舎に出かけた。屋良知事は、公舎の表に立って、落合さんを待っていた。[1,p540]
会見は15分の予定だったが、一時間半にも伸びた。途中で何度も秘書が「議会の時間です」と来たが、屋良知事は「待たせておきなさい」と言って、落合さんに懇々と話し続けた、という。
■7.「沖縄をたづねて果さむつとめありしを」
大田中将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」との電文を、昭和天皇がご覧になられたかどうかは定かではない。しかし、昭和天皇の沖縄への御心は、大田中将の電文と軌を一にしている。
昭和天皇は、終戦直後から国民を見舞い、励まそうと、全国津々浦々を行幸された。8年半かけて全都道府県を訪問され、1411カ所にお立ち寄りされた。[a]
しかし沖縄だけは米軍軍政下にあって、行幸が適わなかった。昭和62(1987)年、秋の国民体育大会でようやくご訪問の機会ができたのだが、その直前、病に倒れられた。
手術の3日ほど後、昭和天皇は「もう、だめか」と言われた。医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。昭和天皇の無念のお気持ちは、次の御製(天皇の御歌)に如実に窺われる。
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
沖縄ご訪問を御自身の「つとめ」とする御心は、大田中将の「特別ノゴ高配ヲ」という願いに応えようとされているかの如くである。
■8.「この地に心を寄せ続けていくこと」
父君・昭和天皇が果せなかった「つとめ」を引き継がれて、今上陛下は皇太子時代に5度も沖縄を訪問されている。
天皇としての最初のご訪問は、平成5(1993)年5月のことだった。沖縄での最後の激戦が展開された摩文仁(まぶに)が岡の平和祈念堂で遺族に直接対面され、原稿も見ずに語りかけられた。
陛下の御心の籠もったお言葉に、頑なだった遺族の心も開かれた。「県遺族連合会」の妻代表、新垣曽用(そよ)さんは、次のように語った。
沖縄県内の電話調査では74%が「天皇の御来県賛成」を表明し、県民の10人に一人が沿道で両陛下を奉迎した。
■9.「この地に心を寄せ続けていく」
今上陛下は、皇太子として最初に沖縄を訪問された昭和50(1975)年7月に、次のようなメッセージを国民に向けて発せられている。
「この地に心を寄せ続けていく」という一語は、大田中将の「特別ノゴ高配ヲ」という願いへの陛下のお答えではないか。とすれば、それは永遠に果たされる事のない、日本国民全体の責務なのである。
現在、普天間基地の移設問題が迷走を続けているが、今後、沖縄県民にふりかかる恐れがある最大最悪の不幸は、中国の支配下におかれることであることを、まずは認識しなければならない。[b]
選挙目当てに米軍基地の県外・国外移設などとあてもない事を公約して、同盟国米国を遠ざけ、なおかつ基地移設を遅らせて県民の負担を長引かせている現政権の心なき様に、泉下の大田中将の思いは、いかばかりであろう。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. 沖縄の地に心を寄せつづけた陛下
b.
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 田村洋三『沖縄県民斯ク戦ヘリ―大田実海軍中将一家の昭和史』★★、講談社文庫、H9
■おたより
■編集長・伊勢雅臣より
「過去の偉人達に恥ずことのない日本国の国民となるように常に心がけるようになりました」とは、立派です。