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JOG(460) 広田弘毅 ~ 黙して逝った「A級戦犯」

広田の死刑宣告に、キーナン首席検事も、「なんというバカげた判決か」と慨嘆した。


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■1.「なんというバカげた判決か」■

 昭和23(1948)年11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷で、ウェッブ裁判長が各被告に対する刑の宣告を行った。アルファベット順で広田弘毅は6番目に呼ばれた。憲兵に連れられ、入廷して被告席に立つ。イヤホンをつけ、うすく目を閉じて聞く。

「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」 広田はイヤホンをはずし、いつものように記者席の隅の二人の娘に微笑を送って立ち去った。法廷内は一瞬、異様な緊張に静まりかえったあと、ざわめきだした。

 絞首刑の判決を受けた7人中、6人までが軍人で、文官は広田のみだった。そして6人の軍人は判事団の票では7対4で死刑判決を受けたが、広田は6対5のわずか一票差による死刑判決だった。有罪の理由は、訴因第1(東アジア、太平洋、インド洋等支配のための一貫せる共同謀議)、第27(対中国戦争の実行)、第55(戦争犯罪および人道に対する罪の防止の怠慢)であった。

 広田をすべての訴因において無罪としたオランダ代表の判事は、「文官政府は軍部に対しほとんど無力であった」ことを認め、その限られた枠の中で広田が十分な努力をしたと主張した。

 広田の死刑は、検事団にとってさえ意外であり、キーナン首席検事は「なんというバカげた判決か。絞首刑は不当だ。どんな重い刑罰を考えても、終身刑までではないか」と慨嘆した。

■2.新任外相の意外な健闘■

 昭和8(1933)年9月、広田は斉藤実首相に強く要請されて、外務大臣に就任した。前年の五・一五事件で陸海軍士官などが犬養首相以下を射殺し、またこの年3月には日本は国際連盟を脱退するという内外多難な時期であった。

 福岡の石屋の息子として生まれた広田弘毅は、郷里の人々の援助を受けながら、東京帝国大学を卒業し、外交官生活に入った。その実直な人柄と仕事ぶりには定評があったが、オランダ公使、ソ連大使を務めたあと、引退を希望し、待命休職の扱いになって、湘南海岸に隠棲していた。広田は外相就任を辞退したが、斉藤首相の強い要請に腰を上げねばならなくなった。

 斉藤内閣では、国防や外交の重要国策について、首相、蔵相、外相、陸相、海相だけで協議する五相会議が開かれていた。斉藤首相、高橋是清蔵相とも70歳を越す長老であるのに対し、陸相の荒木貞夫、海相の大角岑生(おおすみみねお)とも血気盛んな軍人で、特に荒木は対外的には戦争の危機が迫り、国内では国民生活の不安が高まっていると、口角泡をとばす勢いで論じ立てた。

 その五相会議に、ほとんど無名の外相として広田がぽつねんと出席した。しかし、広田は黙ってはいなかった。 開戦の危機というが、いったいどこに戦争の危険性があるのか。軍部は最悪の場合のみを考えすぎる。むしろ問題は、どうしたら、最悪の場合を来たせずにすむかに在る。つまり、外交が先決であり、何より外交努力に力を傾注しなくてはならない。

 こう言われると、陸海相とも反対のしようがない。じわじわと理を尽くして語る広田のペースに二人は押されていった。斉藤首相と高橋蔵相は、新任外相の意外な健闘に目を細めた。

 荒木が外交問題を避けて、国内不安を口に出すと、広田はこれに対しても、追い打ちをかける。

 不安の根源は、満洲問題によって日本がひき起こした国際的波瀾にある。従って、国民の不安を解消するには、各国と親善関係を確立し、対外関係を静穏なものにすることが肝要である。軍の望むような国防力強化は、各国に好戦的印象を与え、マイナスでしかない。

■3.「私の在任中に戦争は断じてない」■

 広田は、諸外国との協調の実を上げるべく、積極的に動いた。米国の駐日大使グルーは友人への手紙にこう書いている。

 この数ヶ月、広田は間断なく、また私の見るところでは真摯に、中国、ソ連、英国、および合衆国と取引する友好的な基礎を建設することに務めました。彼の打った手は、新聞の反外国主義の調子が即座に穏やかになったことや、日ソ間の諸懸案を一つ一つ解決しようという努力が再び取り上げられたことに現れ、また広田が私との会談で、日米関係を改善に導く何らかの可能的通路を見いだそうとする熱心さを見せたことによって、強調されました。広田が本心からの自由主義者で、小村(寿太郎)、加藤(高明)以来の名外相だと考える人もいました。[1,p143] 昭和10(1935)年1月の議会では、広田はこう断言した。

 日本としては今日、世界いずれの国とも最も緊密な関係を保っていくべきで、一言にしていえば、万邦協和というような気持ちで、外交を進めるべきであると思う。[1,p149] 

 
その国際情勢の認識が楽観的に過ぎないか、という質問に対しては: 

 私は日本の前途を楽観はしていない。むしろ楽観することはできない。・・・各国が巨大なる費用を使って、軍備の拡張に努めている今日の現状では、日本が如何に平和の方針をもって進むとしても、やはり根本において軍備の充実は必要であると私は確信している。しかし、将来戦争の恐れがあるかと申すに、少なくとも私が今日の信念をもって申せば、私の在任中に戦争は断じてないことを確信しているものである。[1,149] 

 広田は空想的平和主義者ではなかった。いざという場合に備えて軍備の充実は図りつつも、地道な外交努力により極力、戦争を避ける。それが外交官の使命だと考えていた。

■4.「これで両国は東亜の大道を手をとって歩けるのです」■

 広田の演説に敏感に反応したのが、中国の国民政府主席・蒋介石であった。1週間も経たぬ間に、日本記者団と会見し、「広田外相の演説に誠意を認め、十分にこれを了解する」と語った。そして、日本の中国に対する優越態度と、中国における排日感情が共に精算されるのが、親善の道であり、自身も反日運動を押さえることに努力する、と述べた。この後、国民政府は、全中国の新聞通信社に、排日的な言論活動を慎むよう、厳重な命令を出した。

 日本の対中姿勢も、それまでの高圧的な態度から一変して、融和的となった。満洲問題については、気長に解決を待つこととして、その他の懸案についても、中国側に同情的な立場をとって折衝するようになった。

 こうした協和外交を決定的な形で示したのは、昭和10年5月、在中国の日本公使を大使に格上げしたことであった。大使を置くということは、相手国を重要な国交関係にある大国として遇することである。当時、英米独などの列強は、中国を軽視して公使しか置いていなかったが、それを出し抜いて、日本がいきなり大使昇格に踏み切ったのであった。

 この知らせを受けた王(*)兆銘・行政院長は興奮を隠し得ない面持ちで、「これで両国は東亜の大道を手をとって歩けるのです」と語り、直ちに中国も同様の措置を約束した。(* 「さんずい」に「王」)

 各国は驚き慌てて、日本の後を追い、大使への昇格を行った。中国としては、一気に外交上の地位が高まったので、国民政府は広田外交を大いに徳とした。

■5.「この内閣は粛軍だけでいいんだ」■

 広田は、次の岡田啓介内閣でも外相に留任した。昭和11(1936)年2月、二・二六事件で陸軍将兵が反乱を起こし、首相官邸などを襲った。この混乱を立て直すべく重臣たちが後継首相として選んだのが、広田であった。外相時代の協和外交の実績、軍部に対する毅然たる態度、安定した政治姿勢などが高く評価されたためである。

 広田は「自分は外交官として、一生を終わるつもりでいる」と固持したが、元老・西園寺公の度重なる要請に恐懼して、引き受ける他はない、と覚悟した。

 組閣の過程で、軍部から再三注文がついて、ついには政党出身者は民政・政友両党から1名づつに限る、などとまで言われて、広田は「そこまで軍部に注文をつけられる筋合いはない」と憤慨した。陸軍省に電話して、「軍部が組閣を阻止した」と明日新聞に発表する、と伝えると、陸軍は大あわてで撤回した。

「この内閣は粛軍をやり、正邪のけじめをつける。この内閣はそれだけでいいんだ」と広田は決心していた。早速、首謀者の迅速な軍事裁判を実施させ、将校15名が死刑に処せられた。これまでにないきびしい処罰であった。また全軍の責任を負うとして、寺内陸相など若手3大将を除く全員を退役させ、合計3千人に及ぶ大規模な人事異動を行った。

■6.「庶政一新」■

 粛軍が済むと、広田は「庶政一新」に取りかかった。青年将校たちの決起は、政党政治の腐敗堕落、大衆生活の窮乏に端を発していた。この根本の問題にメスを入れなければならない。

 そのために7大国策・14項目と呼ばれる重点課題を整理した。トップは「国防の充実」だが、それに続いて「教育の刷新改善」「税制の整備」「国民生活の安定(災害防除対策、保険施設の拡充、農漁村経済と中小商工業の振興)など、いかにも地道な項目が続く。

 教育の刷新としては、義務教育年限を6年から8年に伸ばし、産業振興のために発送電事業を国営にする。農村負債整理計画、災害共済保険制度、母子保護法など、下積みの人々の生活安定のための具体的な政策を次々と打ち出した。外交官としてスタンドプレーではなく、ねばり強く各国との問題を調整し、地道に友好を積み上げていく、という広田の姿勢が、そのまま現れている。

「国防の充実」に関しては、陸海軍の個別要求を聞いていてはきりがないので、外務省も含めて、「国策の基準」を制定し、軍備整備の目安とした。たとえば、「南方海洋・・・にわが民族的経済発展を策し、努めて他国に対する刺激を避けつつ漸進的平和的手段によりわが勢力の進出を図り、、、」と定めた。南進論の海軍の顔を立てつつ、「漸進的平和的手段により」と釘をさしている。

 まさかこの「国策の基準」が、東京裁判において「東アジア、太平洋、インド洋等支配のための一貫せる共同謀議」の証拠とされるとは、当時の日本人は誰一人として考えもしなかったろう。

■7.戦争への流れに抗して■

 昭和12(1937)年1月、第70議会が開催された。政友会の浜田国松代議士が軍部を痛烈に批判する演説を行い、これを軍人への侮辱と見た寺内陸相が、国会の解散をしなければ辞任する、と息巻いた。広田は国会を解散する理由はないとして、内閣不統一を理由に総辞職した。

 後継首相は近衛文麿となったが、複雑な国際情勢に対応しうるのは広田しかいない、というのが衆目の一致した所で、広田はまた腰を上げざるを得なかった。首相から外相へとポストが下がっても、国が必要とする以上は応ずべきだ、というのが広田の姿勢だった。

 7月8日、北京郊外の廬構橋で日中両軍の衝突が起こった。陸軍は内地の3個師団を派遣したいと提案したが、広田は事変不拡大・現地解決の方針を強く主張し、閣議もこの線でまとまった。同時に、中国大使にもこの線に沿って、現地解決を妨害しないよう要請した。

 11日の閣議では、「万一事態が悪化する場合に備えて、動員準備の心組みをしておく」という案を杉山陸相が提案して、長時間の議論の末、承認された。ところが、これを近衛首相は「政府は本日の閣議において重大決定をなし、北支出兵に関し、政府として執るべき所要の措置をなすことに決せり」と発表した。毅然とした対決の姿勢を示すだけのスタンド・プレーである。あるいは、ソ連スパイ尾崎秀實に踊らされていたか。[a] 

 そのほぼ同時刻、現地では停戦交渉が合意に達していたが、近衛の強硬声明が流れると、国民政府軍は大挙して北上を開始した。

 中国共産党の暗躍もあって、戦線は上海に飛び火し[b]、その後も広田はあきらめずに和平への努力を続けたが、その甲斐もなく、日本は事変の泥沼に引きずり込まれていったのである。

■8.「ただ、黙していったと伝えてください」■

 昭和20(1945)年12月、終戦の混乱が醒めやらぬうちに、広田を含む59名の戦犯逮捕令が出された。それを聞いた時、広田は無言で頷くだけだった。

 広田は学生の頃に世話になった玄洋社について、しつこく尋問された。その関係団体である黒竜会をナチスのような陰謀団体と見なし、広田をその黒幕と見なしたいようだった。「いろいろ他を調べてみたが、どうもこの大戦争を起こしたと見られる者がいない。あなたが黒幕になって、みんなを操っていたのではないか」とも聞かれた。

「この戦争で文官の誰かが殺されねばならぬとしたら、ぼくがその役をになわねばなるまいね」と広田は他人事のように言った。文官の責任第一と言えば近衛文麿だが、近衛は逮捕命令が出た際に、服毒自殺を遂げている。

 広田は裁判では自分の弁護はいっさいしなかった。事情はともあれ、外交官として戦争を防止できなかった責任を痛感していた。「絞首刑」の判決を淡々と受け入れたのも、この気持ちからだろう。

 昭和23(1948)年12月23日午前零時。処刑の前に、教誨師・花山信勝が面談を行い「なにか、最後にご家族の方にお伝えすることがございましょうか」と聞いた。広田は「身体も元気です。ただ、黙していったと伝えてください」と答えた。

 今も広田弘毅の霊は靖国神社の緑陰で、黙して国の行く末を見守っているだろう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a.

b.

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 城山三郎『落日燃ゆ』★★★、新潮文庫、S61

2. ★★★、講談社文庫、S62

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「広田弘毅 ~ 黙して逝った『A級戦犯』」に寄せられたおたより

悦子さんより

 以前から、広田大臣の絞首刑の不条理さを感じていましたが、広田氏について、外務大臣として最大の努力を続けられた方と教えていただき、ありがとうござしました。

 マスコミや評論家が、A級戦犯と軽々しく言うときに、いつも怒りがこみ上げます。どの立場に立って、このようなおぞましい言葉を使うのでしょうか。今回のこのような読み物で、真実が知らされていくことこそが、不当な裁判で、見せしめとして処刑された方々への慰霊になると思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 広田弘毅の言動も知らずに、「A級戦犯」などと中国の口車に乗って言う輩に、知性の衰弱を感じます。

© 平成18年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

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