JOG(463) 北里柴三郎 ~ 大医は国を治(ち)す
医の真道は人民の健康を保ち、その業を務めしめ、もって国家を興起富強ならしむるにあり。
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■1.「日本の大学者北里来る」■
明治25(1892)年3月、パリに着いた翌朝、北里柴三郎は新聞を見てびっくりした。どの新聞も「日本の大学者北里来る」と大見出しで報道していたからである。
北里はその6年前から、細菌学の確立者、ベルリン大学のロベルト・コッホ教授のもとで研究に打ち込み、破傷風菌の純粋培養などに成功して、「コッホの四天王」の一人と呼ばれる存在になっていたのである。
パリでは念願のパスツール研究所を訪問し、師匠のコッホ博士と並び立つ細菌学者ルイ・パスツールと親しく歓談して、「北里博士へ、すばらしい研究に敬意と祝福をこめて」と書いてサインした写真を、この巨人から贈られた。
その後、アメリカに渡って2週間ほど滞在したが、ペンシルバニア大学やブルックリン市立病院(ニューヨーク州)などから、「年額40万円の研究費のほかに、年額4万円の報酬を支給する」という、とてつもないオファーがあったが、北里は断固として拒否した。
北里はすでにドイツで研究していた頃に、ケンブリッジ大学から、細菌学研究所を設置するのでその所長として来て欲しい、との要請を受けていたが、断っている。断りの返事に彼はこう書いている。
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(明治天皇から)帰朝の上、我が帝国臣民の民の概病(結核)に罹るものを療せよとの恩命あり。生(自分)は目下他事を顧みずこの研究に従事し、明年帰朝の上は、我が学び得たるところの術をもって我が同胞の疾苦を救い、聖恩(天皇の御めぐみ)の万分の一に酬い奉らんとの微志に候。[1,p28]
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■2.「医の真道」■
北里柴三郎は明治維新の15年前、嘉永5(1853)年、肥後の国(熊本県)阿蘇に生まれた。北里家は清和源氏の流れを汲む武家であり、柴三郎は幼少の頃から「自分は由緒正しい武家の血を引いているのだから、立派な武士となって祖先の名を顕揚しよう」と決意していた。
明治2(1869)年、17歳にして入寮した熊本の藩校・時習館は、廃藩置県を前にして、廃止されてしまった。やむなく、開明的な藩主だった細川護久が設立した「熊本医学校」に入学し、御雇い外人であるオランダの軍医ゲオルゲ・ファン・マンスフェルトから医学を学んだ。しかし、北里は内心では軍人か政治家になりたいと思っていた。
ある日の実習で、柴三郎は顕微鏡で拡大した身体の組織を見て、言うに言われぬほどの感激を覚えた。柴三郎は、この時初めて「医学もまた学ぶに値するかもしれない」と思った。
明治8(1875)年には東京医学校に入学。後の東京大学医学科である。十数名の仲間を誘って、「同盟社」と称するクラブを結成し、政治、外交、軍事などの演説会を開いた。北里は「医学道」と題した演説でこう述べている。
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古人言う、医は仁の術なり、また言う大医は国を治(ち)すと。
医の真道は天下の蒼生(そうせい、人民)をして各(おのおの)その健康を保ち、その職に安んじ、その業を務めしめ、もって国家を興起富強ならしむるにあり。
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明治16(1883)年に医学士として卒業した北里は、内務省衛生局に入った。医学の政治、国を医する衛生事業を司ることこそ、自分の素志に近い、と考えたからである。
■3.「私は世界的な学者になるつもりで勉強している」■
明治18(1885)年、ドイツ留学の辞令を内務省から受けて、北里はベルリン大学の衛生学主任教授ロベルト・コッホを訪れた。コッホは炭疽菌、結核菌、コレラ菌などを発見して、これらの細菌が伝染病の病原である事をつきとめた人物である。
下宿と教室の間の道よりほかには知らないほど、研究に打ち込む北里の姿にコッホは注目した。北里は内務省に次のように書き送っている。
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日本では開国してまだ日が浅く、何一つとして欧米文明諸国と肩を並べられるものがない。世界的に評価されている学者もいない。だから私は世界的な学者になるつもりで勉強している。[1,p13]
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こうした努力の成果、北里は世界的な水準の論文を次々と発表していった。その中でも画期的だったのは、破傷風菌の純粋培養に成功した事であった。当時の代表的な細菌学者たちが何年研究しても成功せず、サジを投げていた難題を北里は解決して見せ、学界を驚かせた。北里は破傷風菌が酸素があると活動が悪くなる「嫌気性菌」であることを発見し、無酸素状態を作る「北里式亀の子コルベン」という器具を考案して、培養に成功したのだった。
■4.血清療法の開発■
さらに北里を「世界的な学者」と認めさせたのは、伝染病予防の特効薬とも言うべき血清療法を開発したことである。
北里は破傷風という病気は、菌そのものではなく、菌が作り出す毒素によって起こること、その毒素を少量づつ動物に反復注射すると免疫が出来て、致死量以上の毒素注射にも耐えるようになる事をつきつめた。そして、その血清(血液の上澄み部分)中に毒素を無害化する物質が出来ていることを発見し、これを「破傷風抗毒素」と名づけた。この抗毒素を含む血清を別の健康な動物に注射すると、破傷風菌に感染しても発病しなかった。コッホは次のように語っている。
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そのころは未だ伝染病に対する原因療法は一つもなかったのであるが、実に北里の研究によって血清療法が創始されたのである。当時自分のもとでベーリングがジフテリアの免疫について研究していたが、つねに北里の破傷風の研究に導かれて漸次進められた。
・・・これは、破傷風の研究が近世の治療医学で一新紀元をなしたものと認められる所以である。[1,p24]
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コッホは北里を助手として、結核の治療薬「ツベルクリン」を開発したことを発表。そのニュースは世界を駆けめぐり、それによって、北里の名も知られるようになった。パリで「日本の大学者北里来る」として迎えられたのは、この為である。
なお、コッホの発言にあるベーリングは、当時ヨーロッパで大流行していたジフテリアに対して、化学薬剤による殺菌療法を研究していたが、北里の免疫血清療法に導かれて、共同研究を行った。ベーリングは「血清療法、特にジフテリアに対する血清治療の研究」を理由として、第一回のノーベル生理学医学賞を受賞しているが、コッホの言葉を信じれば、北里こそノーベル賞にふさわしい業績を残した、という事もできる。
なお、北里が血清療法を発見した留学最後の一年は、明治天皇からの特別の恩賜金によって延長されたものであった。「(明治天皇から)帰朝の上、我が帝国臣民の民の概病(結核)に罹るものを療せよとの恩命あり」という言葉はこの事を指す。ケンブリッジ大学やペンシルバニア大学からいくら札束を積まれても、北里の報国の志は動かなかったのである。
■5.日本最初の伝染病研究所■
ドイツ留学を終え、フランス、イギリス、アメリカを経て、明治25(1892)年5月に帰朝した北里を追うように、ドイツ皇帝ウィルヘルムから託されたメッセージが陸奥宗光外務大臣から、明治天皇に伝えられた。
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陛下の臣民北里柴三郎は、久しくわがドイツ帝国にあって伝染病の研究に尽し、医学の発展に貢献してきました。このような人物をわがドイツ帝国において養成できましたことはこの上ない喜びであり、また、日本の陛下の臣民よりこの人物を出したことは陛下のお考えに適うところにちがいなく、心より祝意を呈する次第であります。[1,p61]
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帰朝後の北里は、大車輪で「陛下のお考え」に適う活動を始める。その第一は、コッホにならって、日本にも伝染病研究所を設立することであった。日本には日本特有の伝染病があり、その予防・治療の研究は、国家的要請であった。
しかし、次年度に予算を申請しても、設立は2年後になってしまう。この時、乗り出したのが福沢諭吉であった。
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すぐれた学者を擁しながらこれを無為に置くのは、国家の恥ではないか。つまらん俗論にこだわってはいけない。この際、資金を集めてから仕事にかかるよりは、まず仕事を始め、それから方策を立てたらいい、私から行動を起こそう。[1,p65]
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と言って、福沢は土地を提供し、2階建て6室の建物を建ててくれた。福沢の友人・森村市左衛門が研究設備や機器の購入代金を寄付した。内務省は北里を技師に任命し、この研究所で自由に研究することを許可した[a]。こうして日本最初の伝染病研究所は民間の力によってスタートしたのである。やがてこの研究所は、コッホ研究所、パスツール研究所と並んで、世界3大研究所の一つと称されるようになっていく。
■6.血清療法の事業展開■
伝染病研究所は、研究部門だけでなく、伝染病患者の治療部門、地方各府県の衛生担当者を対象にした講習会部門、そして免疫血清の製造部門があった。
製造部門で生産したジフテリアの免疫血清を、治療部門に入院した患者353人に注射してみると、実に90パーセント以上の治癒率をあげた。
明治28年はコレラが流行し、5万5千人が罹病して、うち4万人が死亡した。死亡率73パーセントである。北里は自ら開発したコレラ用血清を193人の患者に施した所、死亡率を33パーセントに抑えることができた。
このような特効薬を独占販売すれば、莫大な利益を上げることができるが、政府は民間の業者が粗製濫造することを憂慮し、北里に官業にしたいと申し入れた。北里は、国民国家の利益になる以上、快くこれを国家に献上することは本懐だとして、申し入れに応じた。
明治29(1896)年10月、国立の「血清薬院」が事業を開始したので、北里はただちに研究所での血清製造を中止し、その設備一切を献納した。さらに血清の製造技術にもっとも習熟していた高弟・高木友枝をその院長として派遣し、自らも顧問を引き受けた。
ちなみに、免疫血清療法の共同研究者で、ノーベル賞を受賞したベーリングは製薬会社から権利料を受け取っていたという。
■7.ペストと赤痢の病原菌発見■
伝染病研究所所長として国全体の衛生事業を展開しながらも、北里は研究面においても、ペスト、および赤痢の病原菌の発見という世界医学史上にのこる偉業を成し遂げた。
明治27(1894)年3月に、香港でペストが流行し、数百人の死者が出た。北里は政府の命令で、帝国大学医科大学教授・青山胤道らとともに、香港に渡り、患者のリンパ腺などから試料を採集して、ペスト菌を発見した。しかし、青山はペストに罹り、重態に陥ってしまった。
心配した福沢諭吉は、「北里は日本の宝だから絶対に死なしてはならん。早く呼び戻してくれ」と政府にかけあって、帰国させた。北里は明治天皇から「旭日中綬賞」を賜り、幸いにも全治して帰国した青山とともに、千名を超す名士による帰国歓迎会が開催された。
もう一つの赤痢菌の発見は、明治29(1896)年12月に帝国医科大学を卒業し、伝染病研究所に入所した志賀潔によってなされた。この頃、赤痢が大流行し、明治26(1893)年には罹災者16万7千人、死者4万1千人もの被害が生じていた。
志賀は北里から細菌学の手ほどきを受けた後、その指導のもとで、赤痢菌の発見を目指した。そして明治30年12月、「赤痢菌病原菌報告」と題する最初の、そして世界医学史上画期的な論文を発表した。志賀自身はこう語っている。
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私は大学を出たばかりの若僧だったから、先生の共同研究者というよりも、むしろ研究助手というのが本当であった。しかるに研究が予期以上の成果をあげて論文を発表するに当り、先生はただ前書きを書かれただけで、私一人の名前で書くように言われた。普通ならば当然連名で発表されるところである。・・・発見の手柄を若僧の助手一人にゆずって恬然(てんぜん)としておられた先生を、私はまことに有り難きものと思うのである。[1,p88]
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■8.「大医は国を治(ち)す」■
北里の志は、あくまで国民の健康を保って、その業を務めしめ、もって国家を興起富強ならしむる所にあった。それに比べれば、自分一身の名声などはどうでも良いことであったろう。ノーベル賞を逃したのも、こんな姿勢の故ではないか。
志賀と並んで、北里が育てた医学界の巨人が野口英世である。野口は明治31(1898)年4月に、「細菌学を研究したいので、どうしても入所したい」と頼み込み、図書係兼見習い助手として採用された。野口は医術開業試験に合格した正式の医師であったが、ほとんど学歴がなかったので、正式所員としては採用できなかったのである。野口は一年後正式の助手となり、研究所を視察したアメリカのジョン・ホプキンス大学のサイモン・フレキシナー教授の通訳をした縁で、翌々年に渡米し、世界的な業績を上げるのである。
北里は、その後、福沢への報恩を兼ねて慶応大学医学部の創設を行い、さらに北里研究所・日本医師会・日本結核予防協会の設立、伝染病予防法の制定、恩賜財団・済生会初代病院院長としての救療済民事業などに尽力した。わが国の近代的な公衆衛生の確立において、北里柴三郎の貢献は計り知れない。
北里は昭和6(1931)年6月、78歳にして逝去した。20代で立てた「大医は国を治(ち)す」との志そのままに生きた人生であった。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(440) 海外貿易の志士、森村市左衛門
ノリタケ、TOTO、日本碍子、日本特殊陶業、INAXを生んだ凛乎たる精神。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 砂川幸男「北里柴三郎の生涯」★★★、NTT出版、H15
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