JOG(1345) 米軍侵攻から沖縄県民を護れ ~ 沖縄県警察部長・荒井退造の奮闘
住民の無理解や県知事の圧力をものともせず、荒井は一人でも多くの県民を救うべく、疎開推進に奮闘した。
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■1.「私と父との最後の別れ」
昭和19(1944)年7月17日、沖縄の那覇空港を旧式の軍の輸送機がよろよろと飛び立っていきました。搭乗者の中には、郷里の栃木県に戻る荒井退造・警察部長の妻子がいました。当時、小学生だった長男・荒井紀男氏は、半世紀後に出版された『戦(いく)さ世(ゆう)の県庁』で、その時の光景をこう記しています。
この10日前、沖縄軍司令官から、米軍侵攻に備えて、老幼婦女子を本土や台湾に疎開させるという意見具申があり、閣議で了承されました。
沖縄県民の県外疎開は、食糧事情と県民保護の二つの点で必要でした。食料に関しては、沖縄県の米の3分の2は台湾や他県からの移入であったので、米軍が制海権を握って、食料移入が閉ざされれば、深刻な食糧不足に陥ります。また、沖縄が戦場になる可能性が高く、その場合は住民が戦闘の巻き添えになってしまいます。
軍の任務は侵攻してくる米軍との戦い、住民の保護は警察の役割です。沖縄県の警察を統括する警察部長・荒井退造の双肩に60万県民をいかに守るか、という責務がかかっていました。
しかし、当時は米軍の影もかたちも見えない中で、県民たちも疎開には動こうとしません。そこで荒井は警察官や県庁職員の家族を率先疎開させることにしました。荒井の家族が帰っていったのは、そのためでした。
この時から1年近く、荒井と沖縄の警察官、県庁職員による、1人でも多くの県民を救うための奮闘が始まります。その結果、県外への疎開8万人、沖縄本島北部への疎開15万人強と合計20数万人が救われました。
荒井退造については、JOG(651、652)「沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(上・下)」で島田叡(あきら)知事とともに紹介しましたが、今回は荒井退造に焦点を当てて、もう少し詳しく見てみましょう。
■2.警察官は住民のために働くという誇りと信念
荒井は明治32(1900)年9月、栃木県清原村(現・宇都宮市)の農家の次男として生まれました。父を早く亡くしましたが、母と兄に育てられ、宇都宮中学、高千穂高等商業学校を卒業して上京し、警視庁巡査となりました。大変な努力家で、巡査の仕事をしながら、明治大学の夜間部で学び、卒業と同時に文官高等試験に合格して、内務省に採用されました。
その後、都内の警察署長、満洲ハルビンや新京、奉天の警察部長などを歴任し、昭和18(1943)年7月に沖縄県警察部長に着任しました。当時、本土の官僚の中には、遠い沖縄への赴任は「貧乏くじ」という認識がありました。まして、米軍が攻勢に出れば、戦場になるのはまずは沖縄だという不安ももたげていました。
そんな中で、荒井は快く沖縄への赴任をしました。もう生きて帰れないかも知れない、という思いは、心のどこかにあったでしょう。それでも現地での荒井の真摯な執務態度と、裏表のない人柄は沖縄の警察官たちにも好感を持って迎えられました。警察官という職務に誇りを持っていた荒井は、どこに赴任しようと、そこの住民のために働くという信念を持っていました。
■3.疎開に動かない県民たち
住民を戦闘から守る為には疎開しかないと荒井も考えており、軍の発議による閣議決定は、待ってましたという心境だったでしょう。7月末に警察部内に疎開促進のために特別援護室を設置し、さらに荒井自身が陣頭指揮をとりました。
しかし、県民たちは動きません。
「大黒柱の父や息子だけを残して、女や老齢者、子どもたちだけが未知の土地に行って、どのように生きればいいのか」
「今、本土はどこでも食糧事情は悪い。そこに疎開して、歓迎されると思っているのか」
軍は沖縄こそ次の決戦場と見て、10万もの将兵を送り込んできました。銃を肩に将兵が行進する様を、住民たちは道の両側に並んで、日の丸の小旗を振りつつ、大歓声で迎えました。住民は誰一人、これほど大勢の兵隊たちを見たことはありません。
「こんなにたくさんの兵隊さんが来てくれた」「本土は本気で、沖縄をアメリカ軍から守ろうとしている」「これなら一兵たりとも敵を入れないぞ」という期待を住民たちが抱いたのも当然でした。その住民たちに疎開を説くのは難事でした。
■4.県外疎開のための警察官たちの奮闘
住民たちの疎開機運を醸成すべく、荒井はまず警察官や県庁職員たちの家族を、県外に疎開させることにしました。荒井は警察署長会議で、こう訓示しました。
「たとえ郷土を護るために屍をさらすとも」という荒井の覚悟を込めた一言に、警察署長たちは身の震える思いをしました。その範を示すために、荒井の家族が那覇を引き上げたのです。
疎開の第一船が那覇港を出発したのは7月21日。主な乗員は警察官と県庁職員の家族たちで752人でした。これが県民の注意を引き、また各地の警察署が集会を開いて、疎開の趣旨を説いたため、県民たちもようやく真剣に考えるようになり、乗船申込者が殺到するようになりました。
疎開の支援のために警察官は、懸命に働きました。一隻の船には千人規模の老幼婦女子が乗船します。照りつける埠頭で汗とほこりにまみれながら、病人を背負い、あるいは、荷物をかつぎ、幼い子供たちの手を引いてタラップを登りました。
そんな中で、8月22日に長崎に向けて航行していた疎開船・対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃を受けて、撃沈したという痛ましい事件がありました。民間人と学童1600余名のほとんどが犠牲になりました。軍部からの強い要請で、対馬丸遭難のニュースは極秘とされましたが、誰からも無事に着いたという知らせがないので、那覇に残った家族が騒ぎ始めました。
非難は県庁に集中しました。浦崎・特別援護室長はこう書き残しています。
こうして本土への疎開は続けられ、結局、昭和19(1944)年7月から翌年3月までに、187隻の疎開船が出航しましたが、犠牲となったのは対馬丸だけでした。疎開した県民は約7万人に達しました。
■5.引き揚げ者10万人とは「一体誰の命令だ」
このように荒井部長以下、県民の疎開に奮闘している最中に、疎開の先頭に立つべき県知事は足を引っ張りました。
荒井の上司である県知事は本土に出張ばかりしていて、久しぶりに沖縄に戻ると、新聞記者に「公的には言えないが疎開は必要ないと思う」と漏らし、県議会でもこれに同調する動きが高まりました。荒井の疎開推進は独断専横であり、疎開は警察の圧力で進めていると非難が高まりました。
疎開を懸命に進めていた浦崎室長が、知事に呼び出されました。浦崎氏の手記では、次のように記されています。
この後で、浦崎室長が政府からの疎開通達文書に知事の印が押してあるのを見せると、知事は「もうお前には用はない」という顔をしたそうです。住民保護に関する重要な、しかも政府からの通達文書を忘れているとは、この知事が住民の安全など念頭になかったことを窺わせます。しかし、荒井はこんな事にくじける人ではありませんでした。浦崎室長はこう記しています。
■6.「シカボー(臆病)知事」
昭和19(1944)年10月10日早朝から、沖縄全域に米軍の無差別空襲が行われました。攻撃は断続的に夕方まで続き、飛行場や港湾などの軍事施設だけでなく、民間施設や民家まで無差別爆撃が行われました。軍人・民間人あわせて、少なくとも千数百人が死傷、民間船舶を含む約200隻の船が沈められました。
知事は官舎の防空壕に籠もったまま出てきません。荒井がわざわざ出向いて、「ここから出て知事としての職務を果たして下さい」と懇願しましたが、爆弾で防空壕が揺れると「ひい」と悲鳴を上げ、「君に任せる」という声がようやく返ってくる始末でした。
無数の焼夷弾攻撃で、那覇の市街は炎と黒煙で空が見えなくなっています。荒井は警察官や消防団員を招集し、消火班、救護班、住民避難の先導班と分けて、住民保護を最優先して職務に当たるよう命じました。さらに空爆の合間を縫って、車で警察官や消防団員を鼓舞して市内を回りましたが、その間に敵戦闘機の機銃掃射を受けて、九死に一生を得ました。
空襲が収まると、知事は那覇から12キロも北東の普天間(ふてんま)に逃げてしまいました。「県庁舎は焼け残っている。すみやかに戻って、知事として戦災と行政機能の回復のため先頭に立って欲しい」との荒井らの要請を無視して、そこを県庁の仮事務所とする「県達」を独断で出してしまいました。
荒井はそんな「県達」は無視して、那覇に残って、住民救護や避難誘導の仕事を続けました。荒井以下、全警察官の目覚ましい活躍は、県民や軍部を感激させ、絶大の信頼を集めました。
第32軍も逃げ回っている知事は相手にならない、と、以後、荒井と折衝するようになりました。荒井は事実上、県政の最高責任者となり、疎開の陣頭指揮、食糧増産と防空壕建設、軍との折衝と、一人三役の獅子奮迅の働きを続けます。
一方、逃げ回っている知事の動きは県民たちにも知られ、「シカボー知事」というあだ名がつけられました。「シカボー」とは沖縄方言で「臆病」という意味です。
知事はしょっちゅう上京しては、沖縄県からの脱出を図ろうと、各方面に根回しをしていました。そして、翌年1月12日、内務省からの人事異動の発表がなされ、香川県知事に横滑りしました。前年12月23日に「県内疎開に関して政府と協議する」という名目で上京しており、そのまま沖縄には戻りませんでした。
後任の知事としてやってきたのが、大阪府の内政部長だった島田叡(あきら)でした。何人もが断った後、敢えてこれから戦場になる沖縄に、骨を埋める覚悟でやってきたのです。[JOG(652)]
■7.「島田叡」「荒井退造」の「終焉之地」碑
島田知事は県知事として、荒井の活動を後押ししてくれました。一人三役で奮闘していた荒井も「島田知事の着任後はずいぶん精神的に楽になったと思う」とは、戦後、ある沖縄県会議員の言葉です。[荒井、p84]
島田の着任数日後、第32軍の長勇(ちょう・いさむ)参謀長が県庁にやってきました。長は「県には北部山岳地帯への住民疎開と6ヶ月分の食料確保をお願いしたい」と言いました。島田は荒井の顔をチラリと見ました。この二つは、まさに荒井が今まで進めてきて、島田が賛同した施策でした。
すでに制海権が奪われて、県外疎開ができない状態では、住民を戦闘に巻き込むのを防ぐためには、沖縄本島の北部山岳地帯に行かせるしかなかったのです。住民が北部山岳地帯に逃れれば、当然、米軍の手に落ちます。
これは当時、叫ばれていた「一億玉砕」に反する決断でしたが、サイパンでは在留邦人の多くが軍と共に悲惨な最期を遂げたのを、沖縄ではなんとしても防ぎたい、という軍の考えでした。以後、島田と荒井の指揮のもと、住民の北部疎開が大車輪で進められて、結局15万人以上が避難しました。
島田と荒井は、最後は軍と共に本島最南端の摩文仁(まぶに)の丘まで行き、そこで自決したようです。そこには、現在、100以上の慰霊碑や慰霊塔が建てられています。現地に慰霊に訪れた栃木県の薄井容子さんは、その時の体験を次のように記されています。
(文責:伊勢雅臣)
■おたより
(文責:伊勢雅臣)
■伊勢雅臣より
まさに「先人の姿を知ると、心が熱くなる」とは、歴史人物学習の醍醐味ですね。
■リンク■
・「荒井退造」歴史人物学習館
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・荒井紀雄『戦さ世の県庁』★★、中央公論事業出版、H04
・柏田道夫、映画「島守の塔」製作委員会映画、『ノベライズ 島守の塔』★★、言視舎、R04
・菜の花街道荒井退造顕彰事業実行委員会『たじろがず沖縄に殉じた荒井退造:戦後70年 沖縄戦最後の警察部長が遺したもの』★★、下野新聞社、H27