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JOG(651) 沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(上)

 戦火の近づく沖縄から県民を疎開させようと、警察部長・荒井退造(たいぞう)は奮闘した。


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■1.20万県民を救った二人の島守(しまもり)

 大東亜戦争末期、戦場となった沖縄で、一人でも多くの県民を助けようと苦闘し、県民から島守(しまもり)として讃えられた二人の官僚がいた。沖縄県知事・島田叡(あきら)と警察部長・荒井退造(たいぞう)である。

 二人は20万人の県民を県外、および県内北部の安全地域に疎開させた。当時の60万県民の三人に一人はこの疎開によって、命を救われたと言える。

 しかも、沖縄戦の直前、本土に逃げ帰った同僚部長もいるなかで、荒井は警察部長として県民疎開の陣頭指揮をとり、島田に至っては米軍攻撃のわずか2カ月前に、死を覚悟して県知事として沖縄に乗り込んだのである。今回は、この二人の生き様を追ってみたい。

■2.県民疎開の緊急閣議決定

 荒井が沖縄県警察部長として着任したのは、昭和18(1943)年7月、42歳の時だった。国内や満洲の各地で主に警察畑を歩んできた荒井は、南国の明るい風物に触れて、この赴任を心から喜んだ。

 しかし、戦況は南のガダルカナル島敗退、北のアリューシャン列島アッツ島守備隊の玉砕などが続いており、荒井は任地の沖縄について、「国土防衛の前進基地となっているから、まづ防空に全力を尽くしたい」と覚悟を語った。

 1年後の昭和19(1944)年7月7日夜、政府は沖縄県民の60歳以上と15歳未満の老幼婦女子を本土と台湾へ集団疎開させることを閣議決定した。この日、サイパンが陥落し、守備隊約3万1千の玉砕とともに、在留邦人1万2千も運命を共にした事から、沖縄でも同様の事態になることを恐れたのだった。

 県民疎開を発案したのは参謀本部だった。戦場に多くの住民がいては、被害を大きくするだけでなく、住民を守るために軍は本来の戦闘力を大きく削がれてしまう。戦場となる地域からは極力非戦闘員を避難させることが、軍事的常識であった。

 また当時、沖縄は年間消費米38万石(5万7千トン)の3分の2を台湾や他県からの移入に頼っていたので、沖縄での戦闘が始まり、海上輸送が途絶すると、県民の食糧補給が困難になる、との事情もあった。

 しかし、県民の方は迫りつつある戦火を感じながらも、まだ島内は平和であり、しかも年寄り、女子供だけが身寄りもいない土地に行く不安の方が大きかったので、疎開気分は一向に盛り上がらなかった。県民疎開の責任者を命ぜられた荒井は、全署に対して、講演会や家庭訪問を通じて、疎開の必要性を説け、と指示した。

■3.「お父さーん、さようなら!」

 さらに荒井は警察官や県庁職員の家族を率先して疎開させることで突破口を開こうとした。激戦が始まったら、後顧の憂い無く任務の遂行に挺身するためには、まず家族を安全な所に疎開させなければならない、という考えもあった。

 ようやく7月21日、疎開第一船「天草丸」が警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出発した。警察部輸送課長・隈崎俊武警視(当時42歳)の妻と5男2女もその中にいた。当時、6歳で国民学校一年生だった4男・勝也は、当時の状況を鮮明に覚えている。[1,p73]
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 追い立てられるような、慌ただしい旅立ちだったと子供心に記憶しています。その日、一張羅を着せられ、まだ新しい帽子をかぶり、ランドセルを背負い、新品の革靴姿でした。

 母は乳飲み子と3歳の妹をつれ、兄や姉は持てるだけの荷物を持って、那覇港に行きました。埠頭(ふとう)は乗船する家族連れ
見送りの人たちで一杯で、父も見送りに来ていました。
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 タラップから乗船し、船が動き出すと、「お父さーん、さようなら!」「おきなわ、さようならー」との大声が飛び交い、皆ちぎれんばかりに手を振った。幼い子供たちにとって、これが父親との最後の別れになるかもしれない、という事は分からなかったろう。

■4.「対馬丸」の悲劇

 敵の潜水艦を避けるために、船は動いては止まりの繰り返しで、鹿児島に着くまでに2週間もかかった。

 ある日、黒く長い物が水面すれすれに、ジャブジャブと泡を立てながら、船体をかすめていった。「わぁーっ、大きな魚だ」とはしゃぐ勝也少年を、同乗していた叔父さんが「じっとしなさいっ」と叱りつけ、ぎゅっと体をつかまえた。それは敵潜水艦の魚雷で、天草丸は間一髪で助かったのだった。

 そばにいた船員たちも真っ青になっていたが、この件は、乗客を心配させまいと、秘密にされた。

 しかし、そのすぐ後に心配は現実となる。8月5日に学童825人、一般疎開者836人を乗せた「対馬丸」は、鹿児島の南西260キロの海上で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、助かったのは177人だけだった。非戦闘員を運ぶ船舶への魚雷攻撃は、戦争犯罪である。

 名護署に勤務していた国吉真成(しんせい)警部補の妻と6人の子も犠牲者の中にいた。沈没は軍事機密として公表されなかったので、家族を失った国吉警部補は悲しみを包み隠して、疎開作業を進めなければならなかった。

 荒井もつらい思いをしながらも、一人でも多くの県民を救うためには、この悲劇を乗り越えて県外疎開を実施しなければならなかった。結局、昭和19(1944)年7月から翌年3月までに出航した延べ187隻の疎開船が約7万3千人を運んだが、遭難したのは対馬丸だけだった。

■5.県庁トップ二人の疎開妨害

 荒井の職務をさらに難しくしたのは、県知事の疎開反対だった。知事は新聞記者や議員に疎開反対の言辞を漏らし、それがために「引き揚げは知事の意に反して、警察部長が独断で進めている」との県幹部の中で噂が飛び交い、荒井は県会に呼び出されて、議員の追求まで受けた。

 知事は反対の理由について「年寄りや女、子供を言葉や風習の違う本土に行かせるのは可愛そうだ」などと漏らしていたが、当時の状況では説得力はなかった。

 そんなところから、「知事は戦火が迫る沖縄から他府県に逃げ出したいのだが、疎開で騒然とした状況では動きにくいので反対しているのだ」と囁かれるようになった。

 荒井が必死に県外疎開を進めている最中にも、知事は1カ月近くも東京出張をした。県民の中に「知事は他県への転任運動をしている」という噂が渦巻いているのを知ると、日記にこう書いている。「排斥ならいくらでもやれ。喜んでその排斥を受けるぞ。愚民どもめ。まったく沖縄はいやになった。」

 副知事格の内政部長も、また荒井の足を引っ張った。日本放送協会(NHK)沖縄放送局からの県民向け放送の中で「敵は絶対に沖縄に上陸しないことを確信します」と放言した。この放送は県民の間で大きな反響を呼び、せっかく盛り上がりつつあった疎開気運に冷や水を浴びせかけた。

 実は、この内政部長も一刻も早く沖縄を逃れたいと思っており、いましばらく沖縄の情勢が平穏でなければ、転勤運動がやりにくいと考えていたのだ。そのために、荒井の疎開促進活動をぶち壊したかったのである。

 後にこの内政部長は、東京に出張中に、無断で大分県の山奥の電話もない湯治場に「胃病の治療」と称して雲隠れするという行動をとった。

 県知事、内政部長という県庁トップ二人の妨害に直面しながらも、荒井は一人でも多くの県民を疎開させるために奮闘を続けた。

■6.最初の大空襲

 10月10日、米軍機による最初の大空襲が行われ、那覇市内の各所で火炎と黒煙が吹き上げた。知事は寝間着姿のまま、官舎の防空壕に飛び込み、市内の状況把握もしない。内政部長は上述の「出張中」で不在ということで、荒井一人が県庁で住民の避難誘導や消火作業の指揮をとった。

 空襲の合間には、車で市内を回り、各所に派遣した警備中隊や警防団の様子を視察した。途中で敵機に目をつけられ、機銃掃射を受けたがなんとか振り切った。警察部長の命がけの視察を受けた警備中隊や警防団は、意気に感じて消火作業に努めたが、渦になって町を駆け抜ける猛火の前には、どうすることもできなかった。

 県庁舎は焼け残ったが、知事は12キロも離れた普天間の地方事務所に逃れ、そのため県職員も重い書類や荷物を担いで、移動しなければならなくなった。

 県民の間から「この重大な戦局のさなかに長たるものが逃げるとは何だ」と非難が巻き起こった。知事は数日後に県庁に姿を現したが、空襲警報が出るとまた普天間に逃げ帰るという有様で、知事の権威はガタ落ちとなった。

 一方、荒井は「おれは普天間には行かんぞ」と、県庁で頑張っていた。官舎は全焼したため、近くの自然壕で寝泊まりして、県庁に通った。

 沖縄に陣取る第32軍ももはや県知事や内政部長を相手にせず、すべて荒井を相手にするようになった。横穴壕造などの防空体制の強化、食料の増産、軍需供出と労務への対応、輸送力の確保など、すべてが荒井の肩にかかってきた。

 その一方で、戦災で住む家は焼かれ、衣食は窮乏を極めたため、疎開を希望する県民が県庁に殺到した。空襲によって、荒井が今まで進めてきた疎開の正しさが、誰の目にも明らかになったのである。

■7.「島田君に当たってみてくれ」

 第32軍司令部は、敵の上陸に備えて、さらに老人、児童、婦女子を県北部に疎開させる計画を立てた。北部は山岳森林地帯で、戦場となる可能性は少ないからである。

 しかし、I知事は「山岳地帯で、耕地もない北部へ県民を追いやれば、戦争が始まる前に飢餓状態が起きる」と反対した。と言って、県民保護のための対案を示すわけではない。

 第32軍司令部はサイパン島で起きた在留邦人玉砕の悲劇を何とか避けたいとの思いで立てた計画だけに、「県民を救おうという案に対して、県知事が何をほざくか」と怒り心頭に発した。

 そこで沖縄に戒厳令を敷き、行政権を軍司令官が掌握して、知事をその指揮下に入れてしまう、という強攻策を検討し始めた。そんな事をされては面子が立たないと、内務省は慌ててI知事の更迭を決断した。

 しかし、問題は後任探しだった。戦場になることが目に見えている沖縄である。3、4人の候補者を挙げたが、どれも知事にはなりたいが、沖縄ならご免という者ばかりだった。

 そこに第32軍司令官の牛島中将から「島田君に当たってみてくれ」と推薦があった。島田叡(43歳)は当時、大阪府の内政部長だったが、かつて上海総領事館の警察部長だった時に、牛島中将と親交を結んでいた間柄だった。

■8.「もちろん、引き受けてきたわ」

 その打診が来たのは、昭和20(1945)年1月11日の朝だった。妻子3人と朝食のテーブルを囲んでいるところに、隣の知事官舎に住む池田清知事から「話があるから、ちょっと来てほしい」と電話があった。

 やや長い時間が経ってから、島田は戻ってきて、持ち前の神戸訛りで言った。「沖縄県知事の内命やった」

 妻の美喜子は全身の血が逆流するような思いに駆られ、「それで、どうお答えになったのですか?」と聞いた。島田は落ち着き払って答えた。「もちろん、引き受けてきたわ」

 美喜子は驚いて、我を忘れて叫ぶように言った。「沖縄はもうすぐ戦争になるのでしょう。そんな所へなぜ、あなたが行かなければならないのですか。」

 島田は答えた。[1,p140]

 だれかが、どうしてもいかなならんとなれば、言われたおれが断るわけにはいかんやないか。おれが断ったらだれかが行かなならん。おれは行くのは嫌やから、だれか行けとは言えん。・・・

 これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。おれが断れるからというので断ったら、おれもう卑怯者として外も歩けんようになる。

■9.命もいらず、名もいらず

 島田の沖縄県知事任命は、翌12日、閣議決定され、即日発令された。

 島田知事が沖縄に着任したのは1月31日。妻子とは大阪駅で別れたが、これが見納めになった。引っ提げたトランク2つの中には、愛読書の『西郷南洲遺訓』『葉隠れ』とともに、日本刀、ピストル2丁、そして自決用の青酸カリが入っていた。夫人には「死ぬと決まったわけやない」と言っていたが、覚悟の旅立ちだった。

 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。
 此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり


 とは、西郷隆盛の言であるが、敢然と沖縄に乗り込んだ島田についても、そのまま当てはまる。米軍の上陸は、わずか2カ月先に迫っていた。

(文責:伊勢雅臣)

(次号に続きます)

■リンク■

a. 

b. 

c.

d. 荒井退造 | 歴史人物学習館 (rekijin.net)


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』★★、中公文庫、H18


■「沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(上)」に寄せられたおたより

■豊さんより

 島田知事は当時の内務大臣から「その志、その行動、真に官吏の亀鑑と言うべし」とたたえられた真に傑出した官僚であり、小生の大いに尊敬する人物です。

 今回の記事を読んでも人間の真価は平常時ではなかなか分からないもので、非常時にあって初めて本音が見えると言う事を思い知らされます。高位高官の人間が必ずしもその職責をまっとうせず、我先に戦線を離脱したケースは多い。エリートと呼ばれそれなりの敬意と待遇を受けながら肝心の所で卑劣な人間性を暴露した唾棄すべき人間の多い中で島田さんのような人の存在は正に一服の清涼剤です。

 押し並べて戦前、戦中の高位高官には後世の参考となる人は残念ながら少ない。このメルマガでは是非島田知事のような自らを犠牲にしても職責を果たし、現在では忘れられた人々を積極的に紹介して頂きたいと考えます。日本人も捨てたものではないと思いたいのは私だけではないでしょうから。



■編集長・伊勢雅臣より

 今後とも、島田知事のような志ある人物を発掘、紹介していきます。

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