JOG(1291) 大化の改新 ~ 公地公民と律令で幸福な国造りが進んだ
安定した国家体制のもとで、経済・文化が花開き、「御民(みたみ)我れ生ける験(しるし)あり」と歌われた。
過去号閲覧: https://note.com/jog_jp/n/ndeec0de23251
無料メール受信:https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=172776
■1.「権力」「支配」など階級闘争史観用語のオンパレード
現代の日本は軍事大国化した中国とそれに付き従う北朝鮮による脅威に晒されていますが、このパターンは歴史上4度目となります。この前の3度目は日清戦争(1894)、2度目が元寇(1274、1281)、最初が白村江(はくすきのえ)の戦い(663)です。
白村江の戦いを挟んで、内憂外患に対応するために進められたのが大化の改新です。このテーマに関して、中学歴史教科書で50%以上のシェアを持つ東京書籍版を調べたら、その記述ぶりに驚かされました。「権力」とか「支配」とか階級闘争史観臭のする用語だけで説明しているのです。(「」は伊勢)
「大化の改新」「白村江の戦いと壬申の乱」の二項目で、本文は30行ほどですが、その中に「支配」が2回、「権力」が3回も出てきます。こういう文章では、中学生たちは歴史とは「国家支配」のための「権力闘争」としか捉えられないでしょう。
■2.「独立自営の農民としての道を開かれた」
歴史とは登場人物たちがある「思い」を抱いて、ある「行動」をとったというドラマですから、その「思い」を描かないで、単に登場人物の「行動」だけを、それも「支配」とか「権力」などという次元のみで描くという執筆者たちの姿勢には疑問を感じます。
たとえば、日本古代史研究の権威だった坂本太郎・東大名誉教授は大化の改新をテーマとした重厚精緻な研究を遺されていますが、こんな記述をされています。
農民たちが小作人や隷属民の地位を脱して、自分で耕せる田畑を与えられ、「独立自営の農民としての道を開かれた」のです。農民たちが前途に希望を持ったことも、容易に想像されます。これが、中大兄皇子たちが「権力」を握り国家を「支配」して行った「大化の改新」の目的でした。これが本来の歴史記述でしょう。
■3.「唐制を採り乍(なが)ら彼に盲従せず」
農民たちに広く口分田を与えて、自作農とする政策は唐の均田法から学んだのですが、その基本的な考え方は唐とはだいぶ異なっていました。唐では原則として女や奴・碑には口分田を与えず、男も18歳以上59歳以下のものだけした。ところが日本では:
「彼が専ら労働力に応じて田を班(わか)ち収穫の効果のみを期待した」というのは、税を負担するものだけに口分田を与えたということで、人民は単に国家の小作人となっただけです。
「我は広く人民に用益の利を与え」とは、日本では税を課されない女性や子供、家人・奴(やっこ)にも口分田を与えたということで、今日の言葉で言えば国民の基本的人権に基づいて、生活できるように田を与えた、ということです。
大化の改新による自作農化、そして唐とは異なる基本的人権の考え方、こうした所にこそ、大化の改新を断行した中大兄皇子たちの思いを想像しなければなりません。
■4.大化の改新の大眼目は豪族の土地人民私有の否定
大化の改新は、聖徳太子が憲法十七条などで描いた理想国家を、現実の政治に具現しようとした改革です。上述の口分田の仕組みも、十二条の次の一文を実行したものと言えましょう。
「国土」も「国土のうちのすべての人々」も、豪族の領有する財産ではなく、天皇が知らしめす(安寧を祈る)「公地」であり「公民」である、というのが、大化の改新の原則でした。
この公地公民という理想は、初代神武天皇が建国の詔として、「大御宝」である民を「鎮むべし」(安心して暮らせるようにしよう)と宣言された所に遡(さかのぼ)ると考えます。
しかし、聖徳太子がこういう原則を改めて憲法として宣明するということは、現実にはそれとは逆の事態、すなわち豪族たちが土地や民を私有して、それが民の苦しみとともに国政の混乱ももたらしていたからです。坂本博士は、こう指摘されています。
■5.土地人民私有の激化が招いた「社会の混乱」
ここで言う「社会の混乱」の代表的な例が、587年の蘇我馬子による崇峻天皇弑逆(暗殺)、同年の仏教受容を巡っての蘇我氏と物部氏の内戦・丁未(ていび)の乱です。
聖徳太子が亡くなった後に、蘇我馬子は推古天皇に葛城県(かずらぎのあがた、奈良県葛城市のあたり)を、自分の一族の発祥地だから賜りたいと推古天皇に所望し、天皇から、そんなことを許したら「ひとり私が不明であったとされるばかりか、大臣も不忠とされ、後世に悪名を残すことになるだろう」と断られています。
さらに馬子の子、蝦夷(えみし)は、推古天皇が崩御されると、聖徳太子の王子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を斥けて、田村皇子を擁立しました。さらに諸豪族の私有民を徴発して二つの墓を造らしめ、一基を大陵と呼んで蝦夷の墓とし、一基を小陵としてその子入鹿の墓としました。もはや皇族気取りです。
入鹿は643年、山背大兄王を軍勢をもって襲撃し、大兄王は一族揃って自害されるという痛ましい事件がありました。さらに入鹿は蝦夷の家を建てて「宮門(うえのみかど)」、自分の家には「谷宮門(はざまのみやかど)」、子供たちは王子(みこ)と呼びました。
この2年後、中大兄皇子が中臣鎌足の助力を得て、蘇我入鹿を宮中で誅殺し、蘇我氏を滅ぼす乙巳(いっし)の変が起こりました。これが大化の改新の起点となります。
蘇我氏がもし、このまま皇位を簒奪していたら、我が国の歴史は中国のように、力のあるものが天下を狙い、それによって天下の皇位争奪戦争が繰り返されて、民の不幸を招いたことでしょう。蘇我氏の野望を未然に防いだのも、聖徳太子十七憲法の第三条の次の一節を実行したものと考えられます。
■6.律令による文化国家、法治国家の建設
大化の改新によって建設された国家体制を「律令国家」と言います。「律」は刑法、「令」は行政法などを表し、これらにより法治国家が整備されました。現代においては、法律のない国家などないでしょうが、どれだけその法どうりの政治が行われているかは、大きなバラツキがあります。
たとえば、現代中国の憲法で「言論・出版・結社の自由」「信教の自由」「人身の自由」が認められている点などは、香港、法輪功、ウイグルなどを見れば、ブラックジョークとしか思えません。
それに比べれば、大化の改新以降も律令は、天智天皇の近江令(668)、天武天皇の飛鳥浄御原令(689)、文武天皇の大宝律令(701)と半世紀以上にわたって改訂追加の努力が続けられます。この過程で、聖徳太子が始めた冠位十二階も、精緻に整備されていきます。
大宝律令として完成した基本法典の意義を、坂本博士はこう述べています。
国家体制の整備とともに、天皇の役割も深化しました。
■7.「御民(みたみ)我れ生ける験(しるし)あり」
公地公民と律令によって、天皇が「大御宝」である民の安寧を祈り、その祈りを天皇の臣たちが実現すべく努力するという国民国家が築かれました。それは神武天皇の建国以来、聖徳太子の十七条憲法を通じて深化された国家的理想が、相当程度、実現した姿と言えます。
こうした国家の安定が、経済や文化の飛躍的発展をもたらしました。まず自営農民の増加によって、荒れ地の開墾と人口増加が進み、丹後、美作、和泉、能登、安房などの国が新たに設置されました。東北の蝦夷も受け入れられて、出羽国も創設されます。また九州南部に大隅国が置かれ、さらに西南諸島の石垣島からも使者が来朝するまでになりました。
行基や道昭などの仏僧が中心となって、民衆を率いて灌漑用の池を造ったり、橋を架けることが各地で行われました。諸大寺に医療施設としての施薬院が設けられ、病人の治療にあたる僧侶も少なくありませんでした。
生産の発達に伴い、流通も進歩し、畿内では銭貨が使われるようになりました。仏教を中心に学問も興隆し、奈良時代に写経された仏典は合計1829部、9102巻と、同時代の唐を凌駕するほどでした。
木造建築では世界最大と言われる東大寺大仏殿と、鋳造された仏像としてはこれまた世界最大の奈良の大仏が建立されました。聖武天皇は大仏造立のために「一枝の草、一にぎりの土」をもって手伝おうとする者があれば許すようにと命じ、民衆の力も大いに発揮されました。[JOG(843)]
また国際美術史学会の副会長まで務められた田中英道・東北大学名誉教授は、白鳳時代を「世界の美術史上、もっとも豊かな彫刻美術を生みだした時期のひとつ」とし、東大寺大仏などの傑作を続々と生み出した国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)を「世界三大巨匠の一人」と評価しています。[JOG(272)]
さらに文学において特筆すべきは万葉集です。歴代天皇から農民、兵士までの歌を集めた国民和歌集は、国民が和歌を通じて真心を通わせる国民国家ぶりを十分に現しています。
その万葉集に収録されているのが、次の歌です。
「御民我れ」という表現から、「身分低い者としての賀の心」を現した歌とされています。大化の改新の帰結として、このように民が幸福に生きがいをもって暮らせる国民国家が現出したのです。
(文責:伊勢雅臣)
■おたより
■伊勢雅臣より
これが「敷島の民」の幸せですね。
■リンク■
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・伊藤博『萬葉集釋注三』★★、集英社文庫(Kindle版)、H17
・宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀 下』★★、講談社学術文庫、S63
・坂本太郎『日本史概説 上』★★、至文堂、H5
・坂本太郎『大化改新 (坂本太郎著作集)』★★、吉川弘文館、S63