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JOG(263) 尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手

 日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の「赤い東亜共同体」が実現する!


■1.近衛文麿を操った「見えない力」■

 昭和18(1943)年4月、衆議院議員・三田村武夫は近衛文麿を訪れて、戦局、時局の問題について懇談した際、
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 この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次ぎに来るものは共産革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!
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と言った所、近衛はしみじみとした調子で、第1次、第2次近衛内閣当時のことを回想してこう述懐した。
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 なにもかも自分の考えてゐたことと逆な結果になつてしまつた。ことこゝに至って静かに考へてみると、何者か眼に見えない力にあやつられてゐたような気がする。[1]
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 近衛の第一次組閣は昭和12(1937)年6月。この1ヶ月後の蘆溝橋事件をきっかけに日華事変が勃発し、また国内では翌年3月に国家総動員法が成立した。その後の平沼、阿倍、米内内閣はドイツとの距離をとり、第2次大戦にも不介入の姿勢を保っていたが、近衛が第2次組閣をした昭和15(1940)年7月以降、日独伊の三国同盟締結、仏領インドシナ進駐と日米対決への決定的な道を歩み始めた。
 こうして見ると、近衛内閣の登場のたびに、政局は大きく戦争へと進んでいる。三田村議員の言う通り、まさに近衛公爵の責任は重大であった。その近衛はその当時を振り返って、「見えない力にあやつられてゐたような気がする」と言っているのである。その見えない力とは何だったのか?

■2.軍人を踊らせた左翼分子の暗躍■

 近衛はこの「見えない力」について、もう戦局も押しつまった昭和20(1945)年2月14日、天皇にこう上奏した。
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 翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有之(これあり)候、すなはち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候。
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 満洲事変、日華事変、そして遂には大東亜戦争にまで我が国を引きずり込んで来たのは、軍部の組織的計画であるが、
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 これを取り巻く一部官僚及民間有志は(これを右翼といふも可、左翼といふも可なり、所謂(いわゆる)右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命まで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存候。
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■3.尾崎秀實の「赤い東亜共同体」構想■

 日本を共産革命にまで引きずり込もうとした「民間有志」の中心人物が尾崎秀實(ほつみ)であった。尾崎は昭和3(1928)年11月、朝日新聞社の特派員として上海に駐在して、そこで多くの左翼文学者たちと交わり、半植民地化された中国の現状から、マルクス主義への傾斜を深めていった。
 さらに尾崎はアメリカ人左翼ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを通じて、リヒャルト・ゾルゲを紹介された。ゾルゲはドイツ人の父とロシア人の母を持ち、ドイツ共産党を通じて、モスクワの国際共産主義団体コミンテルンに所属していた。
 ちょうどこの年に開かれたコミンテルン第6回大会では、「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と決議していた。日独と米英の間での「帝国主義戦争」が始まれば、共産主義者の祖国ソ連は無事であり、また敗戦国ではその混乱に乗じて、共産主義革命を進めることができる、という戦略である。
 これを中国に適用して、尾崎は日本帝国主義と蒋介石軍閥政権を噛み合わせて、両者共倒れにさせて、日本と中国における共産主義革命を実現させ、そこからソ連、中国、日本を中核とした東アジア諸民族の共同体を目指そうと考えた。まさに「赤い東亜共同体」構想である。

■4.国共合作へのコミンテルン指示■

 1935(昭和10)年のコミンテルン第7回大会では、各国の国情に即した戦略戦術を採用することという方針のもとに、中国共産党に対しては、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことを命じ、それに従って中国共産党は8月1日付けで「抗日救国宣言」を発した。一切の国内闘争を即刻停止して、全面的な抗日闘争を展開しようというのである。
 翌36(昭和11)年12月に突如として起こったのが、西安事件であった。共産軍掃討を続けていた蒋介石が、「抗日救国宣言」に動かされた腹心・張学良に西安で監禁されたのだった。周恩来ら中国共産党幹部が西安にやってきて、蒋介石との交渉を行った。その内容は謎であるが、以後、蒋介石は共産軍との10年に及ぶ戦いを止め、蒋介石の国民党と共産党による国共合作が実現した。
 この時、日本に帰っていた尾崎は、監禁された蒋介石の安否が不明の段階から、「中央公論」誌に「蒋介石が今後の国共合作を条件に、無事釈放されるだろう」と予測する論文を発表した。この予測が見事に的中して、尾崎は中国問題専門家としての地位を固めた。尾崎は国共合作というコミンテルンの指示を知っていたものと思われる。

■5.近衛内閣のブレーンとなる■

 この昭和12年の4月頃から尾崎は昭和研究会に入り、支那問題研究部会の中心メンバーとして活躍していた。この研究会は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制を作り上げた中心機関である。
 翌13年4月には尾崎は朝日新聞社を退社して、近衛内閣の嘱託となり、月2回ほどの「朝飯会」で近衛のブレーンとして意見を言える立場についた。首相官邸の地階の一室にデスクを構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。
 この頃、ゾルゲはナチス党員に化けて、在日ドイツ大使の私設情報官となっており、尾崎とも緊密な連携をとって、日独の機密情報をソ連に流していた。二人は後に逮捕され、死刑に処されているが、このテーマについては別稿に譲ろう。

■6.「東亜共同体」の謀略■

 昭和12年7月、蘆溝橋事件(北京郊外での日中両軍衝突、日本軍と国民党軍を戦わせるための中共軍の謀略との説が有力[2],p394)を機に、上海、南京と、日華事変が拡大した。

 これを機に、昭和研究会のメンバーは日本、満洲、支那による「東亜共同体」の構想をさかんに提唱していった。「改造」昭和13年11月号の東大政治学の権威・蝋山政道による「東亜共同体の理論」、「中央公論」14年1月号の尾崎秀實による「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」などである。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、蝋山論文の翌月、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表する。近衛の言う「無知単純なる軍人これに踊らされたり」とは、まさにこの事か。
 尾崎は「中央公論」14年5月号での「事変処理と欧州大戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。
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 僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(漢口から重慶へと移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権を造り上げること、・・・さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗する面を少なくしていく・・・さういう風な条件の中から新しい---それこそ僕等の考へている東亜共同体---本当の意味での新秩序をその中から纏(まと)めて行くといふこと以外にないのじゃないか。
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 尾崎の言う「東亜共同体」とは、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとする謀略であった。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようとしていたのである。

■7.茅野老の日中和平工作■

 尾崎のグループは国内世論を誘導するだけでなく、実際に国民党政権との和平の動きを妨害した。孫文の中国革命に協力し、蒋介石以下の国民党首脳部とも親しい間柄にあった茅野長知は、上海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将の依頼により、昭和12年10月頃から、日中和平に乗り出した。
 茅野老は国民政府からも信頼されており、翌13年4月には即時停戦、日本の撤兵声明発表などの合意に至った。茅野老が帰国してこの案を説明すると、近衛首相も板垣陸相も承認して、この線で和平実現に努力することになった。茅野老は早速、上海から香港へ渡って、国民党政府と接触し、5人の代表を東京に派遣する事となった。
 しかし、茅野老が再び帰国して、交渉の結果を報告すると、板垣陸相の態度は全く変わっていて「中国側に全然戦意なし、この儘(まま)で押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦声明を出したり、撤兵を約束する必要はなくなった」という。

■8.天才的な謀略■

 茅野老が「それはとんでもない話だ。国民政府は長期抗戦の用意が出来ている。そんな情報はどこから来たのか」と問いつめると、板垣陸相は、同盟通信の上海支局長をしていた松本重治が連れてきた国民政府の外交部司長・高宋武から直接、聞いたという。

 茅野老が香港に行く途中の上海で、松本と会って、交渉の過程を話したのだが、この松本重治は尾崎の年来の友人であり、共に「朝飯会」のメンバーとして近衛首相のブレーンともなった人物である。後に茅野老は松本との会談を「運命の日」だったと述懐している。
 松本が連れてきた高宋武は、日本側に「国民政府はもうすぐ無条件降伏する」と伝える一方、蒋介石にも「中国があくまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という偽りの電報を打っていた。こうした謀略によって、茅野老の和平工作はあと一歩という所で水泡に帰し、その後、高宋武、松本重治、尾崎秀實らによる汪兆銘政権樹立の動きとなっていく。
 汪兆銘は国民党の副総裁であり、あくまで党を分裂させずに、蒋介石にコミンテルンの謀略に乗った抗日戦争を止めさせるよう願っていたのだが[a]、その汪兆銘を担ぎ出して親日政権を作らせ、それを以て日本と国民政府の戦いを続けさせようという尾崎らの謀略はまさに天才的としか言いようがない。

■9.操られていた近衛内閣■

 近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツを仲介国とする交渉を行ってきたが、昭和13年1月には新たな親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府を相手にせず」という第一次近衛声明を発表していた。茅野老の和平工作はこの後に何とか蒋介石政権との和平を確立しようとしたものであった。
 しかし、その望みも消えて、同年11月、近衛は日本・満洲・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第二次声明を発表。これは尾崎らの「東亜共同体」構想そのものである。この声明の中で「国民政府といえども従来の指導政策を一擲(いってき、投げ打って)し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるに於ては、敢へてこれを拒否するものにあらず」と汪兆銘の動きに期待した。
 まさに「見えない力にあやつられてゐたような気がする」という近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎の描いた筋書きに乗せられていたのである。こうして日華事変は泥沼化していった。

■10.「東亜における新秩序」の人柱

 尾崎が「中央公論」昭和14年1月号に発表した「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」では、近衛の「東亜新秩序」声明を引用して、「『東亜共同体』は事変解決の方策の不可欠な重点となった」と述べつつ、こう言い切った。
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 一身を擲(なげう)つて国家の犠牲となつた人々は絶対に何等かの代償を要求して尊い血を流したのではないと我々は確信するのである。東亜に終局的な平和を齎(もたら)すべき「東亜における新秩序」の人柱となることは、この人々の望むところであるに違ひないのである。
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 確かに日華事変に出征した将兵の間には、この戦争が来るべき日中和平の礎になると考えて、一身を擲った人々も少なくなかったであろう。茅野老に和平工作を依頼した上海派遣軍司令官・松井石根大将もその一人であった。松井大将は孫文の大アジア主義に共鳴して「大亜細亜協会」会長にもなっていた。[b]
 しかし尾崎の狙う「東亜共同体」とは、日本と蒋介石政権が共倒れして、両国で共産主義革命が実現した後に成立するはずのソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。共産主義社会になれば、絶対的な平和が訪れる、そう信ずる尾崎にとって、確かに日華事変での犠牲者は「東亜に終局的な平和を齎すべき『東亜における新秩序』の人柱」なのであった。
 共産主義革命後の「終局的な平和」の為なら、国民を欺いて日中戦争に駆り立てて「人柱」にすることも許されると尾崎は信じていた。尾崎は「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と命じたコミンテルンの忠実な使徒であった。 (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(140) 汪兆銘~革命未だ成功せず
 売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。中国の国
民の幸せのために
【リンク工事中】

b. JOG(081) 松井石根大将
 南京事件当時の司令官だった松井大将は古くからの日中提携論
者だった。
【リンク工事中】

c. JOG(043) 孫文と日本の志士達

 中共、台湾の「国父」孫文の革命運動を多くの日本人志士が助
けた。

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

  1. 三田村武夫、「大東亜戦争とスターリンの謀略」★★、自由社、
    S62

  2. 中村粲、「大東亜戦争への道」★★★、展転社、H3

//////////// おたより ////////////
■「尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手」について
 
「上海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将の依頼により、昭和12年10月頃から、日中和平に乗り出した」が、この失敗に尾崎等の謀略があったのは存じませんでした。勉強になりました。

 松井大将はこの交渉の不成立を大変残念がり、また後年蒋介石は「松井閣下には申し訳ないことをしました・・・」と涙ぐんだといいます。
「日中戦争」はまさに「罠にはまった」戦争です。これを侵略戦争というは、木を見て森を見ざるの議論だと思います。「自虐史観に怒れる男達」より

 今回のお話、背筋が寒くなりました。自分の信じる理想のためなら、多くの人が犠牲になっても仕方がないという身勝手な考えによって本当に多くの英霊が犠牲になったことです。

 それにソ連という国、すなわちスターリンの恐ろしさです。今では特高と治安維持法が悪の象徴のように言われていますが戦前の共産主義革命を阻止しようとする方々の苦悩と努力を省みないのは本当に残念です。確かに取り調べは厳しく中には取り調べの途中で命を落とした方もいらっしゃったようでその事は遺憾だと思います。しかし取り調べでも「お母さんを悲しませたいのか」とか諭すように転向を促したそうです。

 多くの人が「理屈はともかく母を悲しませるような事はしたくない」と言って転向したそうです。この言葉に昔のお母さんの偉大さを感じます。やはり最後は理屈よりも人間らしい情が大切だと思います。治安維持法があったから共産主義革命が起こらなかったという側面もあったことを見ないといけないと思います。匿名希望さんより

■ 編集長・伊勢雅臣より

 歴史を学ぶにも、先人の思いを「情」のレベルで共感することが大切ですね。

■「海外にいる人はみな外交官」
 
 高橋さんより

 私、実は最近まで海外を放浪しておりました。その間かなり多くの人々とお話する機会があり、そのなかでよく歴史について話し合うことがありました。
 実際歴史認識について私なりの興味で本を読んでいることもあり、またこのコラムをとっていることもあり、相手の質問に窮することはありませんでした。もちろんまだまだの面もたくさんあるのですが、それにしても驚くほど多くの国の人々が日本に対する認識を誤っているような気がしました。

 それは日本歴史ということにとどまらず、例えば「日本人はハイしかいわないんだろ」とか悪意無く平気で言います。なぜかと聞くと、きみんとこのお偉いさんはなんでも謝って済ますじゃないか、と反論され、私は、なるほど、こういうところで国という側面が出てくるのかということを思い知らされました。
 さらに何よりも大切なのは私が彼らにとって初めての日本人だった場合、つまるところ私が日本を背負っているのです。これは全ての海外旅行者、または海外居住者にいえることなのですが。
 こうなってくると海外に行く以上は日本というものを背負っていくという意識が大切ではないかとおもいます。その意識にもとずいて、日本についての理解を深め、そして日本という国を機会あるたびにアピールしていくべきだなと思いました。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 我々は高橋さんの言うように民間外交官にもなれるし、逆に尾崎秀實のような謀略家にもなれるのですね。一人ひとりの力はまことに大きいと感じます。

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