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JOG(1153) 軍医・高木兼寛、海軍を救う

 全兵員の3分の1もの脚気患者が出るという危機から海軍を救うために、高木兼寛は命を懸けた実験に取り組んだ。


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■1.日本海軍に衝撃を与えた脚気患者の大量発生

 クルーズ船での新型肺炎の蔓延で、船内という密閉空間での感染症がいかに恐ろしいか知らされたが、同じ恐怖を戦前の我が先人たちも味わったことがある。明治15(1882)年の京城事変では、朝鮮宮廷のクーデーターで日本大使館も襲われ、政府は邦人保護のために軍艦5隻を仁川沖に派遣した。それに対抗して清国も戦艦3隻を派遣して、睨(にら)み合いとなった。
 
 この時、日本の五隻の軍艦内では多数の脚気(かっけ)患者が発生し、死亡する者もいた。もしも清国軍艦と交戦状態となったら、日本の各艦には戦闘に応じる人員はわずかで、たちまち危機に瀕することはあきらかだった。日本側はこのような事態を清国側に気付かれないよう、元気な水兵を集めて艦上でしきりに訓練させた。

 脚気は心不全により、足のむくみ、しびれが起き、最悪の場合は心臓発作を起こして死亡に至る。江戸時代の元禄年間には江戸で大流行をしたため「江戸わずらい」と呼ばれ、激しい脚気が流行した京都では、短期間に死ぬので「三日坊」とも言われた。欧米にはない病気で、明治9(1876)年に来日して東京帝国大学医学部で教えていたドイツ人医師ベルツは黴菌による伝染病と考えていた。

 明治天皇は皇后とともに軽い脚気に罹(かか)られた事があり、内親王のお一人を脚気が亡くされている事から、脚気専門病院の設立をしてはどうか、と政府に伝え、破格の金額を下賜されていた。政府も予算を投じ、明治12(1879)年に脚気病院が設立されたが、有効な治療法が見いだせなかった。

 海軍病院の軍医・高木兼寛(かねひろ)は、毎日、脚気患者に接していたことから、なんとしてもこれらの患者を救わねばならないと、自らこの大問題に取り組むこととした。

 改めて記録を調べてみると、明治11(1878)年には海軍の総兵員数4,528名のうち、脚気患者は1,485名、32.8%にも上っていた。これではいくら最新鋭の軍艦を揃えても戦えない。京城事変での危機的状況は、今に始まったことではなかったのである。

■2.「命を救うような医者になりたい」

 兼寛は、嘉永2(1849)年、現在の宮崎県宮崎市高岡町の大工の家に生まれた。幼い頃から勉強熱心だったため、周囲の懇切な計らいで、鹿児島の蘭学塾に入り、オランダ医学を学んだ。

 慶応4(1868)年に戊辰戦役が始まると、兼寛は薩摩藩小銃九番隊付の医者として従軍した。その際に出会った阿波藩の御典医・関寛斎の手術を見て驚いた。関は長崎でオランダ海軍軍医ポンペについて西洋医学を修め、最新の外科手術に長じていた。

 ある戦闘で一人の兵士が右背に銃弾を受け、血が止まらない。兼寛は銃創は手当てできないため、戸板に乗せて後方の治療所に運んだ。そこで出てきた関は、小刀(メス)で胸を切り開き、長い鋏(ピンセット)を使って、巧みに銃弾を取り出した。兼寛には神技に思えた。自分もそんな手術をして、命を救うような医者になりたい、と思った。

 戦争が終わって鹿児島に戻った兼寛は、赴任してきたイギリス人医師に医学を学んだ後、明治5(1872)年に海軍病院での勤務を始めた。そこでの診療の腕と語学力を買われて、明治8(1875)年にはイギリスの名門セント・トーマス病院医学校への留学を命ぜられた。医学研究のためにイギリスに留学するのは、兼寛が初めてだった。

 セント・トーマス病院はイギリスで最も古い由緒ある病院であった。そこで刻苦勉励を続けた兼寛は、首席の成績をとり、外科、産科、内科の医師の資格を得て、ついには外科医としての最高の学位を得て、教授になる資格まで与えられた。

 明治13(1880)年に帰国した兼寛は海軍病院長に任ぜられ、海軍軍医の世界を牽引していく事が期待された。その兼寛にとって海軍の大きな脅威となっていた脚気の問題に取り組む事は、当然の責務であった。

■3.なぜ、外国の港に碇泊している間は発病しないのか。

 兼寛は、いろいろ調べているうちに興味深い事実を見いだした。明治8(1875)年に軍艦「筑波」が太平洋を横断する練習公開をした記録によると、ホノルル、サンフランシスコに碇泊している間は発病者は一人も出ず、帰途につくと急激に増えていた。明治11(1878)にシドニーなどを訪問した際も、碇泊中は発病者はなく、帰途に患者が出るという同じ傾向が現れていた。

 彼は「つくば」に乗っていた士官から詳細を聞いた。碇泊中は乗組員たちは交替で上陸し、街を歩き、名所を見物して回る。「皆、喜んでおりましたが、上陸して食堂で出されるパンを主食とした洋食だけは、辟易(へきえき)している者が多くおりました」と士官は笑いながら言った。

 もしかすると、と兼寛は思った。「筑波」がサンフランシスコやシドニーに碇泊中、脚気患者が出なかったのは、上陸して洋食を食べたからではないか。そして帰途の艦内ではもっぱら和食だけだったので、多くの者が発病したのではないか。伝染病なら、外国の港に碇泊している間も、患者が発生してもおかしくない。

 さらに調べてみると、海軍病院に入院している脚気患者は水兵ばかりで、士官はきわめて少ないことに気がついた。そこで彼は、水兵たちの艦内と兵舎内での食事状況を視察した。当時の水兵たちは食費を金銭で受け取っていたが、米飯ばかり食べて副食は節約し、貯金をしていた。米飯という炭水化物ばかりで、魚などのタンパク質はきわめて少ない。ここに原因がありそうだった。

■4.明治天皇への言上

 ちょうどその頃、冒頭に記した京城事変での脚気患者の大量発生事件が起こり、海軍医務局副長になっていた兼寛は、帰還した各艦から運び出された多くの患者を見て回った。病状が悪化して死亡するものが続出していた。海軍省に戻った兼寛は、局長に「お願いがあります」と切り出した。「士官、兵とも洋食に切り替えたら、必ず良い結果が出ると考えます」

 局長の許しを得て、兼寛は川村・海軍卿(大臣)に上申書を書き、幹部が集まった将官会議で自ら説明した。しかし洋食に切り替えるには、食費が大きく膨らむ、兵たちの洋食への抵抗がある、などの難題から、「将来、兵食制度を改定することにほぼ内定」という先送りで終わってしまった。兼寛は深く落胆したが、あきらめなかった。

 その後、兼寛は政府の要人に会う機会があると、かならず、脚気問題が急務であることを説いた。ある日、前内務卿の伊藤博文にも説いた所、「陛下は、常日頃、非常にこのことをご心配なさっておられる」として、明治天皇に拝謁して、直接、言上する機会を作ってくれた。

 明治16(1883)年11月29日、兼寛は川村海軍卿に伴われて、皇居に参上した。「残念ながらこの病気の本体はなにもわかっておりません」と述べた後、食事が原因であるとの自説を述べ、「願わくは陛下の御英断により、速やかに改良いたして下さいますよう伏してお願い申し上げます」と、深く頭を下げた。

 天皇のお顔に感動の表情が現れているのを見て、兼寛の目には涙が浮かんだ。「いい話をきいた。海軍のために一層努力するように」とのお言葉に、兼寛は再び頭を深く下げた。その様子に、川村は、これから遠洋航海に出る予定の「筑波」で兼寛が建言していた実験を行うことを決意した。

■5.「国家の存亡にかかわる重大事であるので」

 しかし、「筑波」の予定航路はハワイ、ウラジオストック、釜山を回るという短いもので、真の実験とするためには、その年、ニュージーランド、チリ、ペルー、ハワイという大航海を行い、乗組員378名中150名が発病、23名もの死者を出した軍艦と同じ航路を採らなければ意味がない、と考えた。

 そのためには莫大な費用がかかり、さすがの川村も難色を示した。実験のための予算増額を大蔵省が受け入れるはずもなかった。兼寛は、川村の許可を得て、直接、大蔵卿・松方正義に嘆願した。松方は「私の一存ではどうにもならぬ」と言いつつ、参議の伊藤博文公にお願いしてはどうか、と勧めた。

 伊藤に説明すると、「陛下も深く御憂慮されていることでもあるので」と根回しをしてくれ、出航が間近となった時期に大蔵省から「国家の存亡にかかわる重大事であるので」と異例の許可がなされた。その結果を聞いて、兼寛は体が熱くなるのを感じた。

「筑波」の艦長以下、乗組員たちも、兼寛の提案した試験航海を切望していた。一同は兼寛とともに献立表を何度も作り直し、それに合わせた食料調達にかかった。

■6.「ビョウシャ 一ニンモナシ アンシンアレ」

 明治17(1884)年2月3日、「筑波」は品川沖から出航した。その航海は海軍のみならず、天皇をはじめ政府要人の注視の的となっていた。もし従来と同様に「筑波」に脚気患者が続出すれば、天皇に偽りを述べ、国家予算を浪費した罪を問われて、海軍を追放されることもありうる。自ら腹を切らねばならない事態も十分、考えられた。

 彼は夜も目が冴えてなかなか眠れず、眠りに落ちても「筑波」の至る所に脚気患者が寝ていて、死者を布に巻いて海中に水葬する光景を何度も夢に見た。食欲が衰え、痩せた。出勤前に、神社に行って長い間、祈りを続けた。

 3月21日にニュージーランド国オークランド港に着いた「筑波」からの報告が、ようやく5月28日に届いた。肉やミルク、ビスケットを十分に摂った兵員たちは、出発前よりも健康になり、きわめて軽い脚気患者が4名出ただけだった。しかし、問題はこれからだった。前回大量の脚気患者が出たのは、ペルーからハワイまでの航海中だった。

 10月9日夕刻、川村海軍卿から使いが来て、至急、来るように命ぜられた。兼寛は不吉な予感に襲われながら、川村の許に急いだ。川村は『筑波』艦長がチリからハワイに到着して打った電信文を見せた。「ビョウシャ 一ニンモナシ アンシンアレ」

 通信文の文字が涙でぼやけた。歯をくいしばり、嗚咽がもれるのをこらえた。「よかったな。高木君」。そういう川村の声もうるんでいた。「病者一人もなし」の電文は、兼寛の命も救ったことを、川村は感じているに違いなかった。海軍省内も沸き返った。

「筑波」の献立は、海軍全体に展開された。約7千人の海軍総人員のうち、明治16年には患者総数1,236名、死亡者数49名だったのが、兵食改革が全面的に行われた18年には患者数わずか41名、死亡はゼロ、という画期的な成果が得られた。これが後の日清・日露両戦役での海軍の奮闘の基盤となった。

■7.陸軍の日清日露における深刻な影響

 しかし、この明らかな成果を認めない輩が多かった。当時のヨーロッパではドイツのコッホなどが中心となって、炭疽菌、結核菌、コレラ菌などを発見していた。東京帝国大学も陸軍も医学修業のために、ドイツに人材を次々と送り込んでいた。脚気を病原菌による伝染病と考える先入観はここから来ていた。

 彼らにとっては、兼寛の対策は何も理論的な裏付けのない民間療法に過ぎなかった。臨床を重視するイギリス医学自体を見下していた。兵食改革でいかに脚気患者が減ろうと、それはたまたま伝染病が下火になった時期と偶然に一致しただけだと強弁した。

 コッホなどに師事して帰朝した森林太郎(鴎外)が、細菌説の中心人物となった。森は厳密な実験を行って、陸軍の白米を主食とする兵食が最優秀であると主張した。

 明治27(1894)年から翌年にかけての日清戦争では、海軍の出動人員3,096名中、脚気にかかったのは34名、死者はわずか1名だった。一方、陸軍は朝鮮派兵から台湾平定までの戦死者・戦傷死者1,270名に対し、脚気で死亡したのは3,944名と実に3倍以上、発病者に至っては34,783名に上っていた。

 実は日清戦争前には、多くの部隊は国内では麦飯を採用して、脚気患者はほとんど見られなくなっていた。しかし、陸軍中枢部は森林太郎の兵食実験を信じて、戦線では全軍に白米を主食として補給した。その結果がこれである。

 陸軍の中でも、この甚大な被害に批判の声も上がったが、あくまで細菌説に固執する陸軍中枢は、戦前に脚気患者が減少したのは兵舎の環境が改善されたからであり、戦争中に激増したのは現地が不衛生であったからだと言い張り、批判者を左遷までした。

 この頑迷さは、日露戦争でさらなる悲劇を招いた。出動した陸軍の総人員110万名のうち、脚気患者21万名以上。戦死者約4万7千名に対して、脚気で死亡した者は2万8千名近くに及んだ。陸軍に対する批判が巻き起こった。

 悲惨な状況を目の当たりにしている現地軍では米に粟、小豆、麦をまじえるようになった。寺内陸軍大臣も自らも脚気に悩まされて麦飯を常食にしていた事から、戦争途中で麦飯の給与を命じた。

■8.歴史の最後の評価

 こうした中でも、細菌説の中心にあって白米供給にこだわっていた森林太郎は、日露戦争後、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長と軍医のトップに登りつめた。しかし、同様のキャリアを積んだ人々が男爵、子爵に補せられているのに、森にはついにその声があがらなかった。

 一方、兼寛は、東京帝国大学と陸軍からの厳しい敵視を浴びつつも、明治天皇が自分を認めてくれているという事を心の支えに、屈辱に耐えた。そして生前に男爵に補せられ、大正9(1920)年の逝去の日には従二位に叙された。

 兼寛の業績は欧米でははるかに高い評価を与えられた。コロンビア大学やフィラデルフィア医科大学から名誉学位を送られた。さらに兼寛の業績から、オランダのエイクマンがビタミンBを発見して、ノーベル医学賞を受賞した。ビタミン発見の歴史において、兼寛は先駆的な業績をあげた研究者として顕彰されている。

 日清日露と多くの脚気による死者を出しながらも、保身のために細菌説にこだわった陸軍中枢部に対し、ひたすら兵員の命を救うために、自らの命をも掛けた航海実験を敢行した兼寛に、歴史は最後には正当な評価を与えたのである。

(文責:伊勢雅臣)

高木兼寛の銅像(宮崎県総合文化公園)

■リンク■

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■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  
1. 吉村昭『白い航跡(上下)』★★★、講談社文庫、H21


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